第9話
「蒼夜さん!」
「どうしたの、有李華さん。大丈夫?」
優しく問われて、有李華は言葉に詰まってしまった。
有李華は何を聞きに来たのだろう。
あなたは人を殺している?
だ、なんて。
聞きに来たのかしら。
息を整えながらしゃがみ込むと、蒼夜に背中を擦られた。その手は服越しでも冷たかった。
「蒼夜さん、人を殺したことはある?」
「え? ――どうしてそんなことを聞くんだい?」
――誤魔化した。
ぞわりと、これまでとは違う悪寒が走る。
これまで知っていた蒼夜がまるきり違う生き物になってしまったかのような錯覚に陥った。
「――この別荘地に、殺人犯が逃げ込んだんですって。何人も殺されているの。深い霧の日にばかり」
「ああ――そうなんだ」
「蒼夜さん、ひとりきりでこんなところに居るのは危ないわ。しばらく、家に居たほうがいいと思う」
心配しているように聞こえただろうか。
有李華は混乱していた。心配して息を切らして走ってきた少女に見えただろうか。そうでなければ、最悪の場合、ここで死ぬことになるかもしれない。
――ああ、でも、蒼夜は、有李華の知っている蒼夜は、人殺しなんて好まない、知的で理性的な――。
「わざわざ知らせに来てくれたの?」
――そうか。
蒼夜だって四六時中この四阿にいるわけではないのだから、あの林という警察には会っているはずだ。
不自然な忠告だったかもしれない。
「有李華さん、僕はね」
ひたりと左手で頬に手を触れてその湖色の視線を合わせられる。
「ひとを殺したことがあるよ」
***
様々な可能性が頭の中を駆け巡った。
冗談。嘘。そんな類から、必要に駆られて。そんなものから、自分が生きるために、例えば心臓の移植を殺人だと思いこんで過ごしているのかもしれない。というものまで。
当然その中には、世間知らずの小娘を騙して甚振って殺すというものも含まれていたのだけれど。
しかし、蒼夜がよほどのペテン師でない限り、享楽犯というのは考えづらかった。これまで一緒に過ごしてきてそう感じた。
ただ、知性的で理性的な殺人犯だって居るのだということはもう思い出していた。これまで読んできたミステリに何度登場しただろう。
「どうして?」
「僕が僕であるために必要だったから」
「いつ?」
「君が警察役をやるんだね。いいだろう、応えてあげる。最後に殺したのは三年ほど前かな」
じゃあ、少なくとも今起きているこの別荘地での殺人は蒼夜の手によるものではない。
それに安心しながら、蒼夜の手に自分の手を重ねた。
「あっさりと自供するのね」
「捕まらないからね」
「その自信はどこから湧いて出てくるの? わたしがこのまま警察に駆け込むかもしれなくてよ?」
「君は警察になんか行かないよ」
「どうして?」
蒼夜は声を出さずに笑うだけで、返事はしなかった。
それは有李華の激しくしとやかに打つ胸の鼓動に対する蒼夜の答えのような気がした。
「有李華さん、今日は何も持たずに来たの?」
「ああ、ええ……さっきの話を確かめることしか考えていなかったから……」
「直線的だね」
「自覚しているわ。それが危険だということも」
それならよかった、と蒼夜は有李華の頭を撫でた。そのままするりと髪を一房取って口づけた。
目を細める。
この瞬間、たしかに恭悦が在った。
「ねえ、名前を呼んで」
「どうして?」
「わがまま」
「じゃあ聞いてあげないとね。なんだい、有李華さん」
「それが聞きたかっただけ。もういいわ」
蒼夜は湖の中央の方を眺めた。
「ここは恋ヶ淵と呼ばれているんだ」
「そうなの?」
「大層な昔、男女がよく心中に使っていたらしい」
蒼夜が有李華の指先に自分の指先を絡めた。
蒼夜の指はやはり冷たかった。
「もう全部の遺体は引き上げられているけどね」
「詳しいのね」
「まあ、ここにこれだけ居ればね」
「あ、そうだわ。わたし、家人になにも言わずに出てきてしまったから、心配しているかもしれない。というか、十中八九心配されているわ。今日のところは帰らなくちゃ」
「また会いに来てくれるのかい?」
「貴方がお嫌でなければ」
「勿論」
「じゃあ、次の霧深い日に」
「霧深い日に」
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