第6話

 翌日、目が覚めると窓の外は深い霧模様だった。会いに行こう、と思い立ってベッドから起き上がると、くらりと嫌な目眩がした。

 枕元のベルを鳴らしてメイドを呼んで、体温計を使う。三十七度五分。どうやら風邪のひきはじめらしい。

 メイドに見せる前に体温計の電源を切って、笑顔を見せる。

「杞憂だったみたい。今日のお洋服を見繕ってくれる?」


 湖畔に移動すると、珍しく蒼夜は四阿ではなく湖の畔で湖の中を覗き込んでいた。落ちてしまうのではないかと心配になって早足で蒼夜の隣にしゃがみ込む。有李華の黒髪がその動きに付随してとさりと膝に落ちる。

「蒼夜さん? 何をしていらっしゃるの?」

「ああ……有李華さん。いや、湖が今日は透明できれいだから、見ていたんだ」

「ああ、驚いた……まるでそのまま落ちてしまいそうに見えたから」

 そう言うと、蒼夜の顔色が一段と悪くなった。

「どうしたの、蒼夜さん? 顔色が悪いわ……」

「大丈夫……それよりも有李華さん、君のほうが顔色が良くないように見えるな。調子が悪いんじゃないか?」

「いえ、そんなこと……」

 蒼夜の手がすっと伸びて有李華の頬に触れた。それはこれ以上はないくらいに大切なものを手にするような繊細さで。

 その指先の冷たさに、有李華は何故だか悲しくなってしまった。

「やっぱり、熱があるみたいだ。今日は早くお帰り。僕とは霧が深い日ならいつでも会えるんだから」

 蒼夜の手がゆっくりと離れていった。

 その手を掴む。

「どうしてこんなに冷たいの?」

「心が冷たいからだよ」

 蒼夜が振り払わなかったので、有李華は蒼夜の手を握ったまま話し始めた。

「今日、少し熱があるの。それだけ。気にしなくていいの、これくらい」

「僕は心配だな」

「心配なんてしないで。健康なのよ。大丈夫だから」

「本当に?」

「お母様に比べれば、ぜんぜん……嫌だわ、こんな話をするつもりではなかったのよ。わたしは貴方に会いたくて来ただけなんだから、同情なんてしないでね」

「君のお母様は何かご病気なの?」

「ええ。肺病を患っていらっしゃって、ろくに会うこともできないわ。わたしはいつでも素敵な絵本やおもちゃを与えてもらってきたけれど、お父様にもお母様にもあまり会うことはできなかった……。誕生日だって、今まで覚えている限り家族が揃ったことなんて一度もないわ」

 ああどうしてこんな身の上話をしているのだろう。

「――やっぱり、今日は帰りなさい。僕と一緒にいると、体温が下がってしまうから」

「どうして?」

 蒼夜は一瞬黙って、それからゆっくりと言い聞かせるように告げた。

「僕の平熱がとても低いんだ。それにこの湖畔は今の君には涼しすぎるだろう。熱が引いてからまた来るといい」

「そう……そうね、わかったわ」

「いい子だね」

「そうなの。わたし、いい子であることに定評があるのよ、昔から」

 頭にぽんと手を置かれた。

「いい子」

 わたしは両手で顔を覆っていた。

「蒼夜さん、そういうこと、淑女に気軽にしてはいけませんわ……」


 家に帰って熱があることを告げると、執事とメイドに寝室に押し込まれて手厚い看病をされてしまった。

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