第2話
「あら?」
いつもの散歩コースからいつから外れていたのだろうか、見知らぬ分岐道を見つけた。
こんな道、地図に載っていたかしら。
興味本位で一歩踏み出す。それが取り返しのつかない一歩であると知らずに。夕露に濡れた紫陽花が左右を固める一本道は、奥へ奥へと進むごとにその色が青から鮮やかな紫へと移り変わっていった。
紫陽花の小道を抜けると、そこは一面の透き通った湖だった。こんな湖、地図には絶対に載っていなかった。自信を持って言える。
すこし離れたところにある瀟洒な四阿に人影が見えたので、有李華は話を聞くためにそこを目指した。
四阿に座って本を読んでいたのは、線が細く今にも消え入りそうな雰囲気の黒髪の青年だった。年齢は有李華と同じか少し上くらい。
「もし」
声をかける。青年が顔を上げた。その瞳があまりにも美しい湖色だったから息を呑む。
「はい」
「……ごきげんよう。この別荘地、こんな場所もあったのね」
「ごきげんよう。君は――新しく別荘を買った人かな?」
「ええ。蜜ノ園有李華と申します。ご挨拶が後先になってしまってごめんなさい」
「僕は……蒼夜と呼んでくれると嬉しいかな。よろしく」
「なんの本を読んでいらしたの?」
「詩集だよ。ランボオの『地獄の季節』」
「ああ、あれ。鋭く尖った言葉と、それに相反してどこか魂の居場所を感じさせないような感性が瑞々しく感じたわ。けれど――それがあまり肌に合わなかったのはきっと、ランボオがわたしよりも若かったからでしょうね。それを評価できる大人は尊敬に値するわ。わたしは読後あまりすっきりしなかったけれど、歴史背景に造詣が深ければもっと理解ができたのでしょうね」
「うん、そういう本はたくさんあるよ。だから勉強は大事なんだ」
「あなたは普段何をしているの?」
「霧の出る日はここで読書をしているよ」
「変わったひと。天気のいい日じゃないのね」
有李華は日傘を閉じて立て掛け、ポケットからシルクのハンカチを取り出して青年から少し離れた座面に敷いた。スカートをはらい、優雅に腰掛けて、問いかける。
「時々遊びに来ても構わない?」
「ああ、いいよ。本を読むのも好きだけれど、人と話すのも嫌いじゃないんだ」
「気にしていたらごめんなさい。貴方の目、とてもきれいな色をしているわね」
「そうかな。真っ直ぐにそう言われたことはなかったから新鮮だよ、ありがとう」
「そう、この湖みたいな色」
こんなにきれいなのに観光地にしていないのはなにか理由があるのだろうか。
有李華がそう言うと、蒼夜の顔が少し曇った。
「理由はあるだろうね」
「知っていて?」
「予想はできるけど、君は知らないほうがいいと思う」
「まあ、気になる言い方をなさる方」
蒼夜は読みかけだった本をぱたりと閉じた。
「栞は挟まなくていいの?」
「もう何度も何度も繰り返し読んでいるからね、だいたいどのページかくらいはわかるんだ」
「退屈がお嫌いなのね」
「そう。そして推測するならば、君もきっとそうだろう」
「ええ、大当たり」
有李華はくすくす笑った。
この会話レベルのテンポ感が好ましかった。
夕陽が沈みきり、深い霧も相まってあたりは暗くなる。
「ああ、わたしはそろそろ帰らなくちゃ。家人を心配させてしまうわ」
「そうだね。またおいでよ」
「貴方は帰らないの?」
「そうだね、僕は結構遅くまでここにいるよ」
「遅くまで? 蛍でも出るのかしら? じゃあ、夜になっても会いたくなったらここに来てもいい?」
青年は優美というほかない微笑みを浮かべたので有李華の心臓がとくんと脈動した。
「いいよ」
家に帰ると、ちょうど午後八時頃だった。
「どなたか友人ができたのですか?」
執事の吉野に問われて、有李華は笑顔で答えた。
「ええ、素敵な方よ。いつかお招きしたいわ」
「夕食の準備も整っておりますが」
その言葉を聞いて、有李華は不思議とお腹が空いていないことに気がついた。
結構歩いたのに不思議なこともあるものだ。
「ごめんなさい、今日は要らないわ。お風呂に入ってもう寝ます」
「かしこまりました。ではメイドに支度をさせます」
今日は不思議と湖畔の夢が見られる気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます