湖の底から月を見上げて

蓮海弄花

第1話

 蜜ノ園家は、平均的に見て裕福な家庭であった。一人娘の有李華の十九歳の誕生日に別荘をプレゼントする程度には。

 十九歳といえば大学に通ったり就職したりする年齢だったが、有李華はディレッタントとして、高名な学者のもとで勉強をしたり稀覯本を読み漁ったり自由にファッションを楽しんだり、海外のオーケストラをはしごして音楽を嗜んだり、マリー・アントワネット嬢のように奔放に人生を謳歌していた。勉強が嫌いなわけではけしてなかった。だから大学へ進学しても良かったのだが、これまでの人生で同年代とは話が合わないと感じていたので、勉強は家ですることにしたのだった。会いたい人は自分で選ぶ。父に頼めば大学の教授にはアポイントメントを取れるしいつでも会える。

 彼女はその外見にも恵まれていた。長い黒髪は毎晩椿油で手入れをして艶を保っている。使い込まれたその椿の木で造形された容器は母から誕生日に贈られたものだった。母はまたその母から受け継いだらしい。その顔は化粧などしなくても充分に整っていた。

 何一つ瑕疵のない人生を送ってきたように誰からも見えるだろう、完成された可憐さが彼女にはあった。


***


 買い与えられたのは迷路のように造園された広い薔薇園つきの別荘地。そこで過ごすこと数日、日がな一日、日中の間は本の虫のように読書をしていた有李華は、少し体を動かしたくなって、日が沈みかける頃玄関に出た。そこには二メートル先すらも薄ぼんやりとしか見えないような濃い霧が広がっていた。奔放なわたしが顔を出し、少し冒険心が疼いた。こんなに霧が深いのに日傘を差す意味なんてあるだろうか、と思いつつも紫外線を気にしてフリルのついたそれをさした。今日の服装は白いブラウスにボルドーのハイウエストスカート。

 庭の薔薇園は霧によってついた露がうつくしかった。様々な色の薔薇が夕陽を反射してわたしを見てと咲き誇っている。

 それを贅沢に通り過ぎて、有李華は気晴らしの散歩に出かけた。


「おや、二番地の蜜ノ園さんかな」

「佐藤さん? こんなに近づかないとわからないなんて面白いわね。ごきげんよう」

「ごきげんよう。この土地は涼しくていいんだが、霧が特別深くてねえ。蜜ノ園さんも気をつけるんだよ」

「ありがとうございます。気をつけますわ」

 社交辞令を交わして、有李華は佐藤氏とすれ違った。

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