15
身をよじり、壁伝いに出口へ向かおうとする。
アイザックが小走りで距離を詰めた。フォシアもまた駆けた。ほんのわずかな距離であるはずなのに、日頃走ることなどしない足にドレスの裾が絡まる。
無造作に腕を掴まれる。指が食い込んでくる痛みに、フォシアは小さく悲鳴をあげた。
「話をしようともせずに逃げるなんて無礼じゃないか」
「は、離し……っ」
とっさにあげた声が途切れた。
突然腕を引かれたかと思うと壁に後頭部を打ち付け、フォシアの息が一瞬止まった。視界が明滅し、背中全体に固い壁が当たった。
「こちらが優しくしてやったのに、いい気になりやがって!」
唾が飛び、アイザックの荒い声がフォシアの耳をつんざいた。
打ち付けられた痛みに顔を歪めながらかろうじて目をあけると、怒りにかられ、紅潮し歪むアイザックの顔が間近にあった。
「お前なんか、本来なら僕に声をかけられることもない卑しい家の娘なんだ! それを、その顔に免じて僕が慈悲をかけてやると言ってるんだぞ!」
アイザックの両手がフォシアの両腕に食い込み、激しい苛立ちをあらわすように揺さぶった。
「お前なんか、顔だけだ! 勘違いするな!」
激しい怒声を浴びせられ、フォシアは凍りついた。
はじめて直面する露骨な怒りと暴力の気配は、全身を殴りつけてくるようだった。
――顔だけ。
その言葉が、何よりフォシアを撲った。
脆いところを土足で踏みつけられたようで息が詰まる。唇が震え、とっさにこみあげてきたもので喉が震えた。
(……好きで、)
――好きで、この顔に生まれついたわけじゃない。
羨まれ、嫉まれ、勝手に決めつけられる。珍しい服を手に入れようとするのと同じ熱心さで群がられる。
それなのにひそかに想った人には何の意味もなく、目の前のこの男まで――お前の価値は外側だけだと決めつけられる。
恐怖と吐き気にまじり、暗い火に似た怒りが胸を焼いた。
ぐちゃぐちゃにまじった感情が、フォシアの目から雫となってこぼれた。
――涙など見せたくないのに、溢れて止まらなかった。
「そうやってはじめから大人しくしていればいいんだ」
アイザックが粘ついた暗い笑みを浮かべ、片手を離す。だがその手が襟にかかり、フォシアは震えた。
声が出ない。頭が真っ白になり、それから――。
「フォシア! フォシア、そこにいるの!?」
扉を叩く音とともに、耳慣れた声が天啓のように響き渡った。
「ル、――!」
とっさに叫び返そうとしたフォシアの口を、不気味なほど軟らかく厚い手が塞いだ。
フォシアの口を塞いだまま、アイザックは一瞬扉を忌々しげに睨んだ。
「あの女……!!」
そう吐き捨てたあとフォシアに再び向き直ったとき、男の目に加虐が揺らめいていた。
「は、はは! ちょうどいい、証人になってもらおうじゃないか。お前が僕のものになったということの!」
フォシアは濡れた目を見開いた。
扉を叩き、自分を呼ぶルキアの声。湿った厚い手の下でそれでも声をあげようとしたとき、両腕を乱暴に引かれ、床に倒された。
体を打ち付けた痛みを無視して起き上がろうとすると、アイザックの重い体がのしかかってくる。
獣のような荒い息が降り、暗く欲望にまみれた目が見下ろしている。その口元が歪み、笑っていた。
(いや……)
目の前が真っ暗になり、あまりのおぞましさに吐き気がこみあげる。
ルキアの、悲鳴のような呼び声が聞こえる。
フォシアはもがいた。だが過剰に肉をまとった男の体は重く、のしかかられては抵抗ができない。
やがて太い手が無遠慮にドレスの上を探り、フォシアは激しく抗った。視界が歪み、嗚咽で呼吸が乱れる。誰か――。
(助けて……っ!!)
――次の瞬間、叩きつけるような衝撃音が、鼓膜を破かんとするほどに響き渡った。
フォシアは目を見開き、何もわからないまま、のし掛かる男もまた動きを止め――そして甲高い悲鳴と共に視界から男が弾き飛ばされた。
アイザックの重い体はわずかに離れたところに転がり、腹の周りを抑えてうずくまる。
突然解放されたフォシアは、頬を濡らしたまますぐには動けずにいた。
だが滲んだ視界に映ったのは、銀にも似た涼やかな灰色の瞳だった。
鋭く、けれど強い光の照り返しを受けた剣のような目。
状況も忘れて、フォシアはその目に魅入った。
瞳に映り込んだ小さな光点。目元のかすかな赤み。少し息が荒い。
いつもの彼とは別人のようだった。
「……フォシア嬢」
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