7-1

 フォシアは刺繍の手を止めた。ハンカチに刺しはじめた蔦の模様は少しも伸びないままだった。まるで集中できなかった。


 先ほどから何度もそうしているように、いまもまた、部屋の扉に目を向ける。見慣れた自室の扉だった。部屋の中には自分だけで、扉の向こうに誰かが立っているというわけでもない。

 だが――扉を隔てた向こう、一階の応接間には客人がいた。


 すっかり馴染むようになったヴィートの姿でも、急によそよそしくなった知人のいずれかでもない。

 つい先日ヴィートから紹介されたばかりの、灰色の髪の青年。

 グレイ=ジョーンズがいる。


 視界にその姿が入るわけでなくとも、近くにグレイという青年がいるという事実がフォシアを落ち着かなくさせた。見知らぬ異性がこのように家にいるというのはかつてない事態で、否応なしに不安が募る。


 だが、グレイは別に、これまでの求婚者たちのようにフォシアへの情熱ゆえに家にまで押しかけたというわけではない。


『あまり心配しすぎる必要もないが、完全な解決に至るまでは警戒を怠らないほうがいい。グレイは信用できる』


 ヴィートはそう言って、ルキアと連れ立って出かける間、護衛とばかりにグレイを招いた。

 フォシアは強く遠慮した。見知らぬ異性が家にいることは、エイブラ達に対する恐怖や不安に近しいものを覚えてしまう。

 だが、結局ヴィートに諭され、グレイを家に招いたのだった。

 そのことを、グレイ=ジョーンズ自身がどう捉えているのかフォシアにはわからない。


 まともに考えれば、友人の頼みとはいえ、見も知らぬ家の厄介ごとに関わってしかも子守役のようなものを押しつけられたら迷惑だろう。権力者を敵に回すとなれば尚更のことだ。

 あるいは――これまでの男性たちのように下心があって、そうしているのだろうか。

 これまで、フォシアに近づきたいがためにルキアを利用しようとする者や、両親に取り入ろうとする者、フォシアの知人を利用する者などは少なからずいた。


(……早く、何もかもがおさまってくれればいいのに)


 フォシアは重く長い溜息をついた。エイブラもアイザックも、グレイも関わり合いになりたくない。――放っておいてほしかった。




 そのうちに時間が過ぎて、少なくともフォシアが閉じこもっている限りでは、何事もなく日を重ねた。

 ヴィートは相変わらず足繁く通ってきてくれて、ルキアもまだフォシアの側にいる。二人はひたむきに事態を解決しようとしてくれていた。


 フォシアはそんな二人に、自分たちの時間を持つようたびたび促しては、ヴィートの代わりにグレイが来るということを繰り返した。

 グレイが来た時、フォシアは最低限の挨拶以外、ほとんど顔も合わせずに過ごした。ヴィートの代理として自分のために足繁く来てくれているというのにと考えると、さすがにフォシアも気になった。

 だがグレイからの不満めいた言葉や態度が伝わってくることはなかった。




 そうしてその日も、ヴィートの代わりにグレイが来た。

 フォシアはまたいつものように自室にこもり、本を開いた。灰色の髪の青年とは顔を合わせず、ルキアとヴィートが帰ってくるまで待つだけの時間だった。


 途中に挟んであったしおりを持ち上げ、その頁から読もうとして、止まった。

 ――いまこのときも、応接間にいるグレイという青年は一体どうしているだろう。

 ふいにそんなことが気になってしまった。一度気にし出すと、本に意識を戻そうとしてもうまくいかない。

 あまりにも同じように閉じこもる時間が積み重なり、自分で思う以上に退屈していたのかもしれない。


 フォシアはゆっくりと立ち上がり、扉に手をかけた。鼓動が速くなりはじめ、臆病な自分が、部屋に戻ってじっとしているべきだとささやく。


(……少し、お顔を見るだけ)


 フォシアは心の中でそう言い訳して、階段を降りて応接間へ向かった。

 応接間の扉に立つと、忙しない心臓をなだめるように胸に手を当てた。ためらってから扉に手を触れさせ、少しだけ押す。

 あまり褒められたことではない――そう思いながら、ほんのわずかな隙間から、息を潜めて中を覗き込んだ。


 風景画や調度品で飾られた室内の中央に、大きなテーブルと向かい合わせに配置したソファがある。そのソファの片方に、灰色の髪の青年は一人佇んでいた。長い足を組み、片手に本を開いて目を落としている。

 何の小説だろう、とフォシアはとっさに思った。


 しばらくそのまま観察していると、グレイがふいに顔を上げた。同時にその怜悧な眼差しがフォシアを射た。


「――何か?」

「!!」


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