第46話 姜維伯約という男

(三人称視点)


 姓は姜。

 名は維。

 字は伯約。


 『三国志』で知られる中国・三国時代。

 魏・呉・蜀の三国が鼎立したこの時代において、丞相・諸葛亮亡き後、何とか命脈を保っていた蜀に咲いた最後の徒花あだばな


 姜維は涼州の天水郡冀県で生まれた。

 華北の生まれである以上、魏の人と言ってもいい。

 父親の姜冏も羌族の反乱に際し諸将を守り、討ち死にしている。

 忠烈が評価され、息子である姜維が武官として、取り立てられているほどだ。


 その彼がなぜ、魏と敵対する蜀に仕えることになったのか?

 複雑な事情が絡んでいたのである。




 諸葛亮がこれを読み、泣かない者は不忠であると断じられる『出師の表』を奏上したのは漢の建興五年(二二七年)のことだ。

 先君(劉備)の恩に報い、逆賊である曹一族を誅滅し、漢の世を安んじる。

 漢復興こそ、劉備玄徳が成し得なかった果てなき夢だった。

 これが蜀の掲げた大義名分である。


 蜀という国は、複雑な台所事情を抱えている。

 おおまかに分類すると三つの勢力が絡み合って、ようやく成立していた。

 研ぎ澄まされた刃の上に無造作に置かれた絹織物とでも言おうか?

 いつ崩れてもおかしくない微妙なバランスで成立していたに過ぎないのだ。


 第一のグループは劉備が旗揚げした当初から、付き従ってきた草創期の家臣団と言うべき集団である。

 これは華北の出身者が多く、そのほとんどが劉備と同じ地方の者である。

 関羽、張飛、趙雲や簡雍がこの集団の代表だった。

 また、徐州の牧である陶謙から、徐州を引き継いだ劉備を慕い、ついてきた麋竺らもこの集団に入るだろう。


 第二のグループは中原に近い集団である。

 劉備は流転の英雄だった。

 拠り所を得ることない根無し草だった劉備がようやく、落ち着いた場所が『髀肉之嘆』の逸話でも知られるように平穏な時を過ごしていた荊州である。

 この時期に劉備の下に加わったのが諸葛亮や龐統、馬良、馬謖といった荊州でも名士として知られていた知識者階級であり、黄忠や魏延のような武の者である。


 第三のグループは天下三分の計に従い、劉備が蜀を手に入れてから従った集団である。

 この集団がもっとも複雑な事情をはらんでいた。

 何といっても劉備を蜀に迎え入れることに反対していた者が多い。

 蜀……益州の牧である劉璋と劉備は同じ劉姓を持つ同族であることを理由としていたが、それで納得出来ないのが人間である。

 この集団には李厳や楊儀のように前線に立つことよりも後方での支援に優れた才能を発揮する者が多かった。


 この三つのグループが敵対意識を露わにはせず、暗闘していたのが蜀という国だったのだ。

 互いに足の引っ張り合いとなる可能性があった以上、これをどうにかすべきと考えた諸葛亮の策が北伐という国是を掲げることだったと言えよう。


 曹軍という強大な仮想敵を想定することにより、国を一つにまとめる。

 だが、これは非常に危険な諸刃の剣であった。


 翌年の建興六年(二二八年)、ついに北伐が敢行される。

 世に言う第一次北伐と呼ばれるものだった。

 この北伐は諸葛亮が生きている間に五回、行われたがそれほどに大きな成果を上げられなかったのはひとえに荊州という基盤を失っていたことが大きい。


 第一次北伐では荊州から兵を出せないという不利な状況にありながら、天水・南安・安定の三郡を抑えることに成功し、涼州の奪還成功まであと一歩のところに迫っていた。

 ところが愛弟子であり、信頼していた部下である馬謖に街亭の地を任せたところ、この馬謖が命令を無視し、街亭を失うという大失態を犯した為、蜀軍は撤退せざるを得ない状況になったのだ。


 後に『泣いて馬謖を斬る』という故事になったこの出来事はあまりにも有名だが、生前の劉備が馬謖を信用し、重く用いないようにと注意していたにも関わらず、そばに置いておいたばかりか、重用したのは諸葛亮である。

 若き、優れた人材を登用するのに定評がある諸葛亮らしからぬ失敗とも言えよう。


 だが、この第一次北伐で唯一、得られたものがある。

 それが得難き人材であると諸葛亮も評価した姜維だった。


 姜維は亡父の功績により、天水で魏の武官として働いており、その才能はかなり高く買われていた。

 だが、逆にその才能の高さ故に疎まれたとも言える。

 蜀軍の侵攻において、姜維は諸葛亮の策を見破っただけではなく、老年の域に達していたとはいえ、他の追随を許さない武勇の持ち主である趙雲とも互角に渡り合っている。

 智においても武においても非凡な才を発揮する姜維を見て、思うところがあったのは諸葛亮だけではなかったのだろう。


 姜維は天水郡が落とされると蜀への内通を疑われ、行き場を失ってしまった。

 止む無く、蜀へと投降した姜維を諸葛亮は厚く遇したのである。


 諸葛亮にとっての愛弟子が馬謖だったのは疑いようのない事実だった。

 しかし、それはより大きな視点で物事を捉える戦略家として、丞相としての後継者だったとも言える。

 こと前線における用兵術の後継者としては馬謖は向いていなかった。

 姜維という麒麟児はこの用兵術においては確かに天才だった。




 局地的な戦闘における戦術面では姜維は非凡な能力を発揮した。

 手厚い処遇と教えを授けてくれる諸葛亮という師に対する姜維の思いは並々ならぬものがあったと思われる。

 そこには諸葛亮が先主への忠烈と同じ思いが姜維の中にも存在していた。

 諸葛亮を半ば神格化し、師の成し得なかった偉業を達成せんとする思いはひとしおのものだったろう。


 ところが姜維には致命的な短所があった。

 それは目的を達成することしか考えておらず、手段を考慮に入れていなかったことである。


 その為、蜀の国力を考え、北伐をせずに内政に専念していた費禕や蔣琬が存命していた頃はまだ、良かった。

 彼らというたがが外れてから、姜維による国力を考えない無謀な戦が増えたのだ。

 戦いで勝利するということしか、考えていなかったのが姜維の大きな失敗だったと言えるだろう。


 皇帝である劉禅は政治に倦み、悪質な宦官や家臣をそばに置くようになると内政を鑑みない姜維の存在は完全に浮いたものとなり、やがて蜀の滅亡を招いたのである。


 魏の侵攻に際し、姜維は天険の地として知られる要害・剣閣に籠り、善戦した。

 魏軍は鍾会と鄧艾によって、率いられていた。

 鄧艾は奇襲を献策し少数の軍で本陣を離れ、あくまで正攻法での攻めを考えていた鍾会は剣閣で姜維と相対したのである。

 姜維と彼に従った将兵は果敢に戦い、守り切った。

 成都を一気に突く、奇策に出た鄧艾によって、綿竹を守っていた諸葛亮の子・諸葛瞻が討ち取られると皇帝・劉禅は降伏。

 剣閣に立て籠もり勇戦した諸兵は、悔しさのあまり、岩に剣を打ち付け、刃を折り泣いたと伝えられている。


 しかし、姜維はまだ、終わりと考えていなかった。

 学者然としており、非常に統率された軍を率いる有能な指揮官ぶりを見せていた鍾会の心を見抜いていたのだ。

 鍾会が二心を抱いていることは間違いないと踏んだ姜維は、言葉巧みに彼を操った。

 鍾会もまた、姜維の有能さを認めていただけではなく、自身に司馬氏にとって代わろうとする野望があったことからである。


 唯一の障害になるだろう鄧艾という蜀討伐の功労者に冤罪をなすりつけ、非合法に殺すことに成功した鍾会はこれで蜀を地盤として、割拠出来ると考えていた。

 姜維が鍾会を利用し、邪魔な魏の諸将を排除させてから、劉禅を迎え入れ蜀を再興しようと考えているなど、思っていなかったのだろう。


 魏の実質的な指導者だった司馬昭は全てを見抜いていた。

 鍾会という男が抱く野望もその先に起こることも知っていたうえで泳がせていたのだ。

 彼は鍾会が蜀を足場として、覇を競うことはありえないと断じていた。

 魏から蜀へと赴いた諸将は魏への帰還を望むだろう。

 鍾会に未来はない、と……。


 果たして、その通りになったのである。

 帰還を望む将兵らは鍾会に従わず、彼は殺された。

 その時、姜維もまた、ともに殺されたのである。

 姜維に対する魏兵の憎しみは強く、彼の肉体は見るも無残に切り刻まれたが、その肝は信じられない程に大きかったと伝えられている。


 こうして、師を愛し、師の歩みし道を辿ろうとした一代の英雄は世を去ったのである。

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