葉蔵と那美

ナレーション │ 国境の長いトンネルを抜けると、雪国だった



 新幹線を降りると、同じ車両に乗っていた女性が、駅員に駆け寄った。

乗客 │ 駅長さあん、駅長さあん

駅長 │ やあ

乗客 │ 弟がお世話になっています。弟はよくやってますか?

駅長 │ やってますよ

乗客 │ よろしくお願いします


 葉蔵は、この雪深い駅に勤めている駅長と、その弟が、すこしうらやましく。姉の瞳が、夕闇の波間に浮かぶ、妖しく美しい夜光虫であった。




 葉蔵は温泉に着いて、女将に部屋へ案内された。


女将 │ 雪深い中、ようこそおいでくださいました

葉蔵 │ 駅からここへ来るまで、すっかり冷えてしまった

女将 │ 露天風呂へどうぞ。その間に、お食事の用意をいたします


 温泉に向かう途中、ひとりの女性と出会った。背の高い西洋人で、均整の取れた体に、モデルのような顔立ち。一目で心奪われた。しかし、ひとりでなにをしているのだろう。普通、温泉旅行なら連れがいるだろうに。


葉蔵 │ どうかされました?

那美 │ いえ、温泉がどこか、迷ってしまって。

葉蔵 │ 温泉でしたら。こちらですよ。私も行くところです


 ふたりで温泉の入り口までやって来る。


那美 │ ありがとうございました

葉蔵 │ ごゆっくり


 那美は女湯へ消えて行った。

 葉蔵は、湯につかり、空から舞い落ちる雪を眺めながら、時折、女湯から聞こえてくる、彼女の感嘆に耳を澄ましていた。




 洋風の広い部屋に、窓から陽が射しこんでいる。


 朝、食堂でスープを一さじ、すっと吸ってお姉さまが、「あ」とかすかな叫び声をお挙げになった。


那美 │ 髪の毛? スープに何か、イヤなものでも入っていたの?

姉様 │ いいえ


 お姉さまは、何事も無かったように、またひらりとひとさじ、スープをお口に流し込み、すましてお顔を横に向け、窓の外の、満開の山桜に視線をおくり、そうしてお顔を横に向けたまま、またひらりとひとさじ、スープを小さなお唇のあいだに滑り込ませた。


姉様 │ そんなに見つめられると、恥ずかしいわ

那美 │ もうしわけありません。スープの頂き方が、あまりにも美しかったので、みとれていました

姉様 │ 昨夜、あんなにも沢山、私のスープを差し上げたではありませんか

那美 │ とても美味しゅうございました。私のスープは、いかがでしたか?

姉様 │ それはもちろん、とても美味しかったわ




姉様 │ ところで、冬に、ひとりで温泉へ行ったわよね

那美 │ はい

姉様 │ 好きな殿方でもできたのかしら

那美 │ えっと、その

姉様 │ やっぱり。体は正直ね。時々、うわの空で、私のことなど、どうでもいいようなふりをするわ

那美 │ お恥ずかしい

姉様 │ 別に恥ずかしがることはないわ。きっとその殿方こそ、あなたの遺伝子が求める人かも知れないから




葉蔵 │ 私は、その人を常に先生と呼んでいた。だから、ここでもただ先生と言うだけで、本名は打ち明けない


葉蔵 │ 私が先生と初めて会ったのは、夏の鎌倉だった。人の黒い頭が、海の上をゴロゴロしてい中から、先生は上がってきた。日に焼けた体に、競泳用のブーメランパンツだけを履いた先生は、潮を落とすことなく服を着て、そのまま、どこかへ行ってしまった。どういうわけかわからないが、私は、先生を一目見た時から、心をざわつかせる存在になってしまったのだ


葉蔵 │ 私はそれから、毎日のように海へ出かけ、先生を探した。運良く、発見することができても、話しかけるわけでもなく、ざわざわと心乱されて、私は余計、先生と近しい関係になりたくなった


葉蔵 │ ある日、先生は、ひとりで沖の方へ泳いで行った。私も後を追って、泳いで行った。周りには、私と先生だけになった

葉蔵 │ 沖でふたり、浮いていると、私は「楽しいですね」と言った

先生 │ もう帰りませんか

葉蔵 │ そうですね。帰りましょう


葉蔵 │ それがきっかけとなり、以後、先生の家に、泊りで遊びへ行くほどの、深い仲になった




葉蔵 │ ある時、先生は言いました

姉様 │ 好きな女性でもできたのかね

那美 │ えっと、その

姉様 │ 隠すことなどない。体は正直だ。時々、うわの空で、私のことなど、どうでもいいようなふりをする

那美 │ お恥ずかしい

姉様 │ 別に恥ずかしがることはない。きっとその女性こそ、君の遺伝子が求める人かも知れないのだから




葉蔵 │ しばらくして、私の父の様態が悪くなり、実家に帰って、家族で父の看病をしていた


葉蔵 │ いよいよ、父の最期が近いというとき、私宛に郵便が届いた。A4の封筒に、はち切れんばかり、パンパンに膨れていた封筒を、はさみで丁寧に開けると、冊子の束のような手紙があふれ出てきた。この時、不意に一句が私の目に入った


先生 │ この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう


葉蔵 │ 私は、身なりを整えると、駅までタクシーを走らせ、東京行きの新幹線に飛び乗りました。先生、お願いですから、生きていてください




葉蔵 │ しかし、新幹線は止まってしまう。急いで各駅停車に乗り換えるが、寝過ごして、東京を通り過ぎてしまう


葉蔵 │ もうどうでもいい。ありがとう。先生。私を信じてくれて。私は酷い裏切り者だ



葉蔵 │ 私は、自動販売機で水を買った。その水を飲むと、夢から覚めたような気がした



葉蔵 │ 行こう。私を呼んでいる。遺伝子が叫んでいる




 慌てて、逆方向の電車に乗るが、それは快速で、降りなければならない駅を通過してしまう。ふたたび、逆方向の電車に乗り、やっと、先生の家の最寄り駅に着く。もう時期、日が落ちる。それまでには、先生の家まで行かなければ。




 走り出す葉蔵にあわせて『天国と地獄』が流れる。


 フリルを踊らせた男女が、壇上に躍り出て、音楽に合わせて歌い踊る。




 ♪急げ~ 葉蔵~


 ♪あなたが電車を寝過ごしていなければ~ 余裕で間に合ったのに~


 ♪途中で、あきらめそうになったのに~


 ♪電車を乗り間違えていなければ、間に合ったのに~ 


 ♪走れ~ 葉蔵~




 夕日が落ちる瞬間、先生の家に着いた。

 先生の家は、病院を営んでいる。手術室には、腹の傷痕をあらわに寝ている女の死体があった。先生は、死体から臓器を抜き取っていた。

 その隣に、驚くべきことに、温泉宿で会った、白人の美少女が横たわっていた。


葉蔵 │ 先生! いったいなにをしているんですか?

先生 │ この臓器を取ってな、別の人に移植するじゃ

葉蔵 │ 臓器移植は倫理的に問題があるということで、遺伝子治療や再生医療に替わって廃止になりました

先生 │ なるほど、私のやっていることは悪いことかも知れない。しかし、今、臓器移植をしなければ、助けられない人がいるのだ


葉蔵 │ なるほど、きっとそうか。ならば、俺がおまえの臓器をとっても恨むまいな。そうせねば、俺も死ぬさだめなのだ


 葉蔵は、那美を背負うと、病院から駆け出しだ。




 夕暮れの彼方から、鉄床雲がおどろおどろしく迫って来ると、辺りがあっという間に暗くなった。雷鳴が轟き、大きな雨粒が降り出した。

 ふたりはあっという間に、ずぶ濡れになり、駆ける道は川の様になり、とても逃げるなどというところではなくなった。

 その時、朽ちた平成の遺物が目に入った。葉蔵はその遺物に逃げ込んだ。那美を背からそっと降ろす。濡れた体はあっという間に体温を奪い、葉蔵は震えた。


 ひび割れたコンクリートのビルを駆け巡り、燃えそうな物を集めて、火を点ける。ここは不良どものたまり場だ。燃える物にも、添加剤にも、こと欠くことはなかった。


 葉蔵は濡れた服を脱いだ。その時、那美が目覚ました。


葉蔵 │ 大丈夫ですか?

那美 │ わ、私…


 那美は突然、気がついた。びしょ濡れの体は、服が透けている。


那美 │ キャァ!

葉蔵 │ ごめん


 葉蔵は後ろを向いた。


葉蔵 │ 君を病院から担ぎ出した。途中、ゲリラ豪雨にあって、ここへ雨宿りに入った。俺は向こうを向いているから、服を脱いだほうが良い。体が冷える。


 那美は服を脱ぎなから、葉蔵に語りかけた。


那美 │ 助けてくれてありがとう

葉蔵 │ 君は、デザイナーベビーだろう

那美 │ どうしてそれを!?

葉蔵 │ 先生の研究テーマだったからさ

那美 │ そのことを知っているってことは、あなたも?

葉蔵 │ そうだ。遺伝子治療を受けた人だ

那美 │ 名前を教えてくださる?

葉蔵 │ 葉蔵

那美 │ 那美です



 葉蔵と那美とは、炎をへだてて向かい合った。


 この時、閃光と同時に耳をつんざく爆音が体を震わせた。


那美 │ キャアアア!

葉蔵 │ 那美!


 と若者は叫んだ。


 震えて透き通るような白い肌に、雨の雫が流れる。葉蔵は熱くなった。


葉蔵 │ そっちへ行って良いかい?


那美 │ その火を飛び越して来い。その火を飛び越して来たら


 裸の若者は爪先に弾みをつけて、火の中へまっしぐらに飛び込んだ。次の刹那にその体は、少女のすぐ前にあった。彼の胸は彼女の胸に軽く触れた。ふたりは抱き合った。




 2時間がたった頃、ゲリラ雷雨も止んだ。


那美 │ これが遺伝子のつながり?

葉蔵 │ そうさ。これが遺伝子のつながりだ

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