ミク・キャサリン・クラーク誘拐事件
ミクとプリヤンカは、カラオケでアニソンを熱唱している。
曲が終わる。
「ミクはなにを歌わせても上手いね~。アメリカのトップシンガーみたいだよ」
「プリヤンカも上手いよ」
「ふー。さすがに疲れた。ちょっと休憩」
「あたし。トイレ行ってきます」
ミクが部屋から出て行く。それを目で追って、プリヤンカは、ポケットからスティックを取り出し、ミクの飲みさしに粉末を注ぐ。
ほどなく、ミクが戻ってきて、飲みさしてあったジュースを飲んだ。
プリヤンカが歌いだす。ミクはタブレットを見ながら、次に歌う曲を検索している。ふと、目がかすむ。頭がぼんやりとしてきて、ミクはソファーに倒れて、スースーと寝息をたて始めた。
「お休み、ミク」
誠たちが暮す家のことは、便宜上『横田ハウス』と呼ぶことになった。
横田ハウスでは、まもなく夕食の時間だ。朝食と夕食は、原則として、みんなで食べる。これは家主、横田優人からの命令。食事は家族団らんが至高という理由らしい。メイドのアンと、仕事の都合があるキャンディは例外とされている。
というわけで、食事の用意が整うと、アンから同居者たちの端末に通知が届く。全員揃うと、食事が始まる。ところが今日は、ミクがいない。
「ミクなら、友達の家に泊まることになったって、連絡があったわ」
家主代行キャンディの言である。
食後、自室でくつろいでいる誠に、龍之介から電話がかかる。
「もしもし」
「こんばんは」
「どうした? こんな時間に」
「ミク・キャサリン・クラークを預かった」
「遊びに行ってるって意味か?」
「そうじゃない。世俗的な言葉を使えば、誘拐した」
「おい。冗談にしても笑えないぞ」
「ミク・キャサリン・クラークを返して欲しくば、デザイナーベビーのサンプルを渡して欲しい」
「なんのことだ? 言っている意味がよくわからないな」
「君の父君。横田優人が作った。データはハッキングで盗めるが、完成したサンプルも必要だ」
「あいにく、親父の研究については全く知らない」
「今年になってから、横田博士の近くにいた四人の女性が、一斉に日本へ渡った。そして、君と一緒に暮している」
「たんなる偶然だろ」
「偶然か必然かは問題じゃない。その中に、デザイナーベビーがいる。それが重要だ」
「さっきから、言っている意味がわからんのだが」
「とぼけ続けるならそれでもいい。明日、学校で会う時に、デザイナーベビーを渡してもらう。五人全員、誘拐することもできるが、そうなると警察も動く。こちらとしても、大事にしたくない。君の賢明な判断を期待する」
通話が切れる。
「コール。ミク」
コール音がして、すぐにつながる。
「こんばんは。誠」
「こんばんは。今日はどうした?」
「キャンディから聞いてない? 友達の家に泊まるって」
スマフォの画面に、プリヤンカが映る。
「いつの間に、プリヤンカと仲良くなったんだ?」
「今日、帰る途中、偶然、アニメショップで会って、意気投合して、そのまま流れで、家にお邪魔しました」
「こんばんは、誠。そんな訳で、今日はミクを預かっておくね」
こいつ。わかって言ってるな。
「ミク。変わったことはないか?」
「別に。楽しくやってるよ」
「そうか。明日、学校で会おう。おやすみ」
「おやすみ~」
「おやすみなさい」
通話が切れる。
今の雰囲気だと、無理矢理、拉致された訳ではないようだ。プリヤンカにそそのかされた? 龍之介とグルなのか。いずれにしろ、ミク自身に、誘拐されたという認識はないようだ。それなら良い。怖い思いをさせたくない。
話を整理しよう。
まず、いたずらの可能性だ。これは、トップシークレットである親父の研究のことを、龍之介が知っていたという点で、考えにくい。本当だとするなら、デザイナーベビーを欲していることは事実だ。同時にそれは、ミク本人がデザイナーベビーであることを知らないことを意味している。知っていたら、そのまま連れ去ればいい訳で、取引なんて持ちかけない。
昼間、俺たちと別れたミクに、プリヤンカが接触した。意気投合したと言っていたから、ある程度、話を合わせたということだろう。その後、プリヤンがミクを家に招き入れることに成功した。ミクはプリヤンカの監視下にある。
ミクを誘拐した組織が、どの程度の規模なのかわからないが、大事にはしたくないらしい。危険が全くない訳ではないだろうが、ミクを安全に救い出すこと。それが最優先事項だ。
「コール。キャンディ」
「はい」
「先生は明日、早く出ますか?」
「いや、みんなと一緒に出られるよ」
「そしたら明日、みんな一緒に、学校へ行って欲しい」
「OK」
「それと、もうひとつお願いがある」
「なに?」
「明日、みんなの安全確保をお願いします」
「なにそれ? なんか危ないことでもあるの」
「理由は訊かないで欲しい」
「保護者として、危ないことに手は貸せないな」
「頼みます。先生しか頼れる人がいないんです」
「悪いことじゃないでしょうね」
「まさか」
「犯罪なら警察に届けた方がいい」
「今のところ、ホントに犯罪なのか、単なるいたずらなのか、わからない」
「気を配るぐらいしかできないよ」
「それでいい」
「危ないと判断したら、止めるし、警察に連絡する」
「それでいい」
「わかった」
「ありがとう」
翌朝。朝食をとりながら、誠が話す。
「みんなにお願いがある。今日はみんな一緒に、学校へ行って欲しい」
「いつも一緒じゃん」
「キャンディと、アンも一緒に」
「アンも? どういうこと?」
「理由は訊かずに、頼む」
「あたしは良いよ」
「私は、朝食の後片付けがありますので」
「アン。家事のことは一旦、おいといてくれ」
「誠さんがそうおっしゃるのなら」
「ありがとう」
五人で学校へ向かい、校門をくぐると、先に龍之介とミクがいる。
登校中の生徒でごった返す校庭。人質救出が人混みなら都合が良い。
「ミクがいる。おはよう~」
「陽子、おはよう~」
「全員、Freeze!」
龍之介が声をあげる。
「なに?」
「誠だけ、こっちに来て」
誠はゆっくりと歩いて行く。
「さて誠君。件の娘が誰か、教えてくれないか」
「それは、これさ!」
誠はポケットから、白い粉を握りしめ、龍之介の目にめがけて投げつけた。
「うわっ!」
誠はミクに手をとる。
「走れ!」
誠はミクを連れて、学校の外へ走って行った。
「誠! これはなにごと?」
「とにかく今は走れ」
とりあえず、駅まで走ってきた。さすがに息が切れるが、ミクは平然としている。
駅に着き、辺りを見回すが、追っ手はないようだ。
「誠。どうしたの?」
「ミクを誘拐したっていう脅迫電話があった」
「誘拐!? どうしてそうなるの。昨日は電話で話したとおり、プリヤンカの家に泊まったけど、なにも悪いことされてないよ」
「俺にも訳がわからないんだけど、とりあえず一旦、あの場からミクを切り離すのが最善だと考えた」
「そう…。誠はあたしのことを救ってくれたのね。ありがとう」
「念のため、安全が確認されるまで、家や学校には近づかない方が良い。このまま電車に乗って、どっか行こう」
「どっかって?」
「どっかだな」
「誠、手が真っ白よ」
「これは小麦粉。龍之介の目つぶしに使った」
「誘拐と龍之介が関係してるの?」
「わからん」
とりあえず、逃げよう。誘拐は、人混みや開けた場所で起こりにくい。混んでいる電車を乗り継ぎ、開けた場所を求めて。
気がついたら、海に着いていた。
「海だ~」
ミクは、止める間もなく、靴と靴下を脱いで、波打ち際に駆けよって足を付けた。
「冷た~い!」
打ち寄せる波を蹴って、引いていく波を追いかける。再び打ち寄せる波から逃げて、思いのほか大きな波に足元をすくわれ、転びそうになる。
「誠も来なよ~」
誘われるまま、誠も靴と靴下を脱いで、波打ち際に歩み寄って、打ち寄せる波に足を付けた。
「冷たー!」
「でも、気持ち良い!」
ミクが満面の笑顔で海を満喫している。それだけでほっとする。海岸の様に開けた場所で、まさか誘拐はないだろう。
二人でひとしきり遊んで、コンビニで昼食を買い、砂地に座って食べ始めた。
「あたしが誘拐されたのは、あたしがデザイナーベビーだからでしょ」
「知ってたのか」
「あたしの両親も、誠の両親と同じ大学で遺伝の研究をしてた。両親とも白人だったけど、全然、似てないの。7歳の時に真実を打ち明けられた」
「さすがアメリカ。個人の権利はしっかり説明するんだね」
「あたしがショックだったのは、自分がデザイナーベビーであった事実より、あたしを暖かく育ててくれた両親と、気まずくなってしまったこと。お互いに遠慮があったのね」
「ミクは大学付属の学校に通っていたの?」
「そうよ。時々、優人さんの授業も受けた。だからあたしは、先生って呼んでるの」
「今回、日本に来ることになったのは?」
「両親と先生の勧め。アニメと漫画の本場へ行けるのは、チャンスだと思ったから、二つ返事でOKした」
「ミクらしいな」
「日本の高校に憧れもあったし」
「なにそれ」
「だって、日本のアニメや漫画は、高校が舞台でしょ。制服も着てみたかったし」
「親父の授業を受けてたっていうことは、飛び級してるんじゃない?」
「わかった? 実は、高校課程は履修済みです」
「だと思ったよ。いまさら高校の授業を受けるの、退屈じゃ無い?」
「大丈夫。漢字の勉強してる」
「キャンディもグルなのか」
「そうよ。でも、キャンディも不憫ね」
「どういうこと?」
「優人先生のこと、好きだし」
「それは聞きたくなかったな」
潮が満ちて、ふたりが座っている場所まで波が届くようになった。
「ちょっと、向こうの様子を訊いてみよう。コール。キャンディ」
「もしもし」
「そっちはどう?」
「なにも問題ないわよ」
「龍之介は?」
「今、ここにいるけど」
「え? どういうこと」
「帰ってくればわかるよ」
なんか、拍子抜けだ。
「大丈夫みたいだ。帰ろうか」
夕日がふたりの影を長く伸ばす。家の前にキャンディがいる。
「おかえり」
「大丈夫なのか? 本当に」
「中に入って話そうか」
誠とミクはキャンディの部屋に入る。なんと、そこに龍之介とプリヤンカがいる。
いったい、なにがなんだか訳がわからない。
「まずは、謝らないとね。ごめんなさい。誠君」
「???」
「これ全部、仕込みなの」
「なんだってー!」
「優人さんの命令でね、誠がどの程度、危機に対応できるかテストして欲しいって。それと、星君と芦茂富さんの紹介もかねてね」
「俺とプリヤンカは、優人さんが派遣した、君たちのSPなんだ」
はあ、と力が抜けて、誠はその場にしゃがみ込んだ。
「ホント! ごめんね」
「良かった」
「え?」
「ミクに危害がなくて」
「そ、そうね」
誠を、後ろから抱きしめてミクは言いう。
「誠はあたしのこと、助けてくれたのね。どうもありがとう」
事の顛末はこうだ。
三人でクラブの見学へ行った日、俺たちと別れたミクとプリヤンカが接触。趣味趣向は調べがついていたから、話を合わせて気が合った振りを装う。プリヤンカの部屋には、ミク好みのアニメや漫画が、18禁のも含めて、たくさんあるので、観に来ないかとたくみに誘った。部屋では、タイミングを見て夕食やお風呂など馳走し、帰りずらい雰囲気を作って、ミクを家に泊める。
それが確実になった時点で、龍之介が俺に脅迫の電話を入れる。どのような交渉術を用いるか。臨機応変に対応する技術は持っていたが、俺の対応は意外とシンプルなものだった。龍之介が提示した条件を全て飲む。学校で会った時の、俺の行動は意外なモノだったらしいが。
親父は密かに、二人のSPを同じクラスに送っていた。
ひとりは『星 龍之介』
ひとりは『
ふたりとも、見た目だけなら15~16歳に見えるが、本当の年齢はわからない。基本的な交渉術と、CQCを会得しているらしい。クラスメイトに紛れ込んで、皆を見守る。合気道の俺、いらないじゃん。
「悪かったよ。優人さんの命令だったから、断れなかった」
「誘拐したのが、あたしだったからよかったけど、本当の誘拐だったら今頃、ミクは某国行きの飛行機に乗っているわね」
「このことは、みんなには内緒ね」
「こんなこと話せるか」
とりあえず、ミク誘拐事件がネタで良かった。これからは、なにも起こりませんように。
プリヤンカは、マンションに帰って、部屋の灯りを付ける。ウォークインクローゼットのドアを開ける。部屋には圧力鍋のようなものが三個、並んでいる。そのひとつの蓋を開ける。中は液体窒素が充填されていて、採血管が何本か刺さっている。
「カラオケ、楽しかったね」
ニコッと笑って、蓋を閉める。蓋には、ミクとカラオケに行った日付と時刻。そして「ミク・キャサリン・クラーク」と記されている。
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