第6話 《騎士》リンスレット
――この世界に神はいない。少女、イリナ・クーリオはそう思っていた。
けれど、その人は突然現れたのだ。
病気で寝たきりになった母は、どんどん体調を崩すしかなかった。お金もなければ、栄養のある食事も満足に与えることはできない。
本当ならもっと大きな町に行って働ければ――そう思っても、イリナは母の下を離れることができなかった。
女性らしい服など買うこともできず、髪の手入れもできない。
もちろん、今はそんなことを、イリナは望みもしなかった。ただ――母の体調さえよくなれば、それでいい、と。
……母を治してくれた人の名はクライン・ディヴァリスと言う。
彼は以前、大きな町で医者として活動していた経験もあるらしく、訳があってこんな田舎の方へと移り住んできたのだという。
「先生、本当に、ありがとうございます……っ」
「なに、気にすることはないよ」
母の診察を終えて、帰宅しようとするクラインに、イリナは深々と頭を下げる。
物静かで、どこか幻想的な雰囲気を漂わせる人だ。
古びた教会に住み着いた彼を、初め村人達は訝しんでいた。……今では、すっかり彼に依存している。――イリナもまた、その一人であった。
人は何をキッカケに、その人を好きになるか分からない。
少なくとも、イリナにとっては母を治してくれたクラインは、誰よりも尊敬できて、大切な人になっていた。
「お金も払えないのに……母のこと、本当に何て言ったらいいのか……」
「だから、構わないって言っているだろう? これでも私は研究者でもあるからね。彼女の治療は、そのまま私の知識に繋がってくるのだから。君もどこか悪いところがあれば、私に言うといい。いつでも歓迎するよ」
「っ、先生は、やっぱりすごい人、です。その才能を、こんなところで使ってくださるなんて」
「そうでもないさ。才能を持っているのだとしたら、どんなところでも使うのが正解だよ。だって、それが持つ者の使命であり、権利なのだから」
ああ、この人はなんて良い人なのだろう――イリナはどこか、妄信的にクラインのことを見ていた。きっと、こんなことを言うのはおこがましいことなのかもしれない。
それでもイリナは自然と、口を開いてしまっていた。
「私にも、先生のお手伝いができたら、いいんですけど――あっ、わ、私ったら、ごめんなさいっ」
「……いや、とてもありがたい申し出だよ。それなら、今後は君にも手伝えることは手伝ってもらおうかな」
「……! は、はい! 是非!」
イリナの表情はパアっと明るくなり、クラインがそれに笑顔で答えてくれる。
《フレンマ》の村の奇跡――いつしか、そう呼ばれるようになっていた。
***
「……この辺り、ですか」
一人の少女が、そう呟きながら周囲を確認する。
銀色のプレートは身軽に動けるように軽装にしていて、同じく銀色に光る直剣を持って構える。
金色の長い髪を後ろに束ねて、少女――リンスレット・フロイレインは青色の瞳で森の中を注視する。
……今回の依頼は、森の中に現れた《魔物》を討伐すること。彼女は、《調停騎士団》に所属する《正騎士》という立場にあった。
ほんの少し前に、正騎士になったばかりの、ある意味では新米だ。
だが、正騎士を名乗ることになった者は、一人でも任務に就くことがある。
リンスレットはまさに、その任務の途中であった。
意識を集中し、周囲の音を聞く。ガサリ、という音が耳に届き、自らに向けられた殺気に素早く反応して、
「ふっ――」
一呼吸。吐息と共に、リンスレットは地面を蹴って距離を縮めた。
銀色の輝きを放った剣が、蠢く草木の中に隠れるモノを切り伏せる。
「ギッ――」
とても小さな、断末魔。
黒い毛並みの《ブラック・リスプ》という魔物。人型で狡賢く、数匹の群れで行動する。
この近くを通る行商人の一行が襲われたという情報を受けて、リンスレットがやってきたのだ。
剣にこびりついた血を振り払うと、リンスレットは小さく息を吐く。
「これで七匹目。さて、報告にあったのは八匹ですから、残りは――」
「ギギギギィ!」
「!」
大きな声と共に、木の上から一匹の魔物が飛び降りてくる。ブラック・リスプだ。手に持っているのは、木の上でなっていた果実。
それを、リンスレットに向かって投擲する。
リンスレットはそれを迷うことなく斬り捨てた。目くらましのつもりか――そう思ったが、果実を見てリンスレットは理解する。
(これは、確か《毒》があるという……)
触れただけで、皮膚から侵食していくタイプの毒。猛毒ではないが、徐々に身体を痺れさせる効果があるはずだ。
それを理解して投げてきたのであれば、大した知能である。……リンスレットには、何も関係ないが。
「ギハッ」
「即効性がないのであれば、斬り捨ててから解毒するまでです。無意味でしたね」
ブラック・リスプが逃げ出す前に、リンスレットは剣で確実に仕留める。
逃げきれなかったとしても、魔物の取るべき行動はただリンスレットから逃げることが正解だった。
頬についたわずかな果汁を拭い、リンスレットは懐から解毒剤を取り出そうとする。
「……あ」
そこで、リンスレットは重大なミスに気付いた。
ビンの中身が空なのである。団員に支給される解毒剤は、一般的な毒には効果があるものだ。……貴重な薬ではあるが、リンスレットはそれを惜しげもなく使ってしまう。少し前に寄った村で毒草に侵された子供に、だ。
「なんてことですか、私としたことがこんな初歩的なことを……ううん、慌てたらいけません。そ、そうです。身体が痺れる前に村を探せばいいのですからっ!」
リンスレットはそう決意して、足早にその場を後にする。
すでにリンスレットの目的は達成されている――目的の魔物を打ち倒し、残る仕事は報告に戻るだけだ。
任務の予定日もまだ少し先……そこまで慌てる必要もなかった。ただ、今の彼女は慌てている。慌てる必要があった。
(お、落ち着きましょう。急げば急ぐほど身体に毒が回るのも速くなりますし……いい感じで急がないと、あ、でもちょっと身体が痺れてきました……っ)
もう少しで森を抜けるというところで、ぷるぷると身体が震え始めるリンスレット。
せっかく初の一人任務で格好良く決めたつもりだったのに――そう思いながら、リンスレットはがくりと膝をつくと、
「……何しているのよ、そんなところで」
「っ!」
そこに現れたのは、リンスレットにとって救世主のような存在だった。
ローブを羽織り、フードを目深に被った少女の姿が、そこにはあった。
顔まではよく見えないが、声で少女だと分かる。
華奢な身体付きで、荷物も大きなものは持っていない。……この近くの村の子だろうか。
とにかく、リンスレットは縋るような表情で少女を見つめて、
「と、とても良いところに来てくれました……。申し訳ないのですが、助けてもらってもいいですか……!?」
それはまさに、迫真というに相応しい。
リンスレット・フロイレインの初任務は、こうして少女に助けられることで幕を閉じたのである。
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