49 「ああああああああ!」
「止めて! マグヌスを止めてっ! アストリッドがぁっ!」
部屋に飛び込んできた女中に命令するが、火かき棒を持っている男とは距離が詰めにくいようで歯痒そうに躊躇していた。
「こいつの! こいつのせいだっ! こんな奴死ねば良いんだ!」
「ああああああああああああああああああああっ!!」
その間にも火かき棒は容赦なくアストリッドの背中を焦がし、娘の泣き声がどんどん激しくなる。
「止めろマグヌス!」
これ以上使用人の応援を待っていられなかった。
マグヌス目掛けて食卓の上に置いてある花瓶を、飲みかけのコーヒーカップを、剥いだテーブルクロスを次々と投げつける。
「なっ!?」
最後に投げたテーブルクロスは的中した。
突然視界を奪われたマグヌスの動きが一瞬怯んだ。その隙にマグヌスに体当たりをすると、衝撃で火かき棒が床に落ちアストリッドを奪い返す。
「アストリッド! ああっ! ああっ!」
部屋に遅れて入ってきた使用人達が、テーブルクロスに絡まったマグヌスの体を押さえつける。
「ああああああああ!」
「アストリッド! もう大丈夫よっ、ごめんね! 守ってあげられなくてごめんね!!」
泣き叫ぶ娘をキツく抱き締め、マグヌスを睨み付ける。
自分があの時火かき棒を片付けていたら、アストリッドはあんなシンバルみたいな酷い仕打ちを受けなかったのだろうか。自分がもっとアストリッドを強く抱いていれば、マグヌスの手に渡らなかったのだろうか。
先程からずっと頬を涙が伝っている。
「自分の娘に何をしたか分かっているの!? 貴方には失望しました! もう一緒に暮らしていけないわ!」
別れを告げた時、テーブルクロスが巻き付いた夫はどのような顔をしていたのだろう。窓を叩く雪はそれを知っていたろうに教えてくれなかった。
夫はその後刑務所に入る事になった。
「たかが1回で大袈裟すぎるんだよ、なあ許してくれよ、ロヴィーサァ!!」
手錠をかけられたマグヌスは保安官に連行される直前まで喚いていた。
たかが1回。そのたかが1回が、大袈裟ではない爪痕を残したと言うのに。
何も言わずに居ると、もう真っ当な道で生きていけぬ事を悟ったのだろう。一転してマグヌスの口調が荒くなった。
「くそっ、こうなったら殺してやる! どこまでも犯罪者になってやる! 殺すのはお前じゃない、そのガキだっ! 覚えてろ!! どこに居たって見付けてやる!」
最後の最後まで声を荒げるマグヌスに恐怖を覚えた。
マグヌスは本気かもしれない。1度犯罪を犯したら2回目もしやすくなる。
次はアストリッドが何をされるか分からない。今度は守ってあげられないかもしれない。
考え過ぎかもしれない。分かっているが、もうあんな思いをしたくなかった。
実家に戻ったのに暫くはずっと不安だった。
それから月日が流れ、少しずつ風が冷たくなってきた頃だった。
一人で通りを散歩していたところ、いきなり路地裏に引き込まれたのだ。下品極まりない笑みを浮かべた男達は、あっという間に自分を組み敷きドレスを破いていった。
どんなに抵抗しても男達はただ笑うだけ。怖くて怖くて涙が止まらなかった。悪夢のような時間が終わり、虚空を見つめている自分に男が一人囁いてきた。
――お前のせいで俺達の楽団は解散させられたんだ、と。
瞬間、理解した。
これがマグヌスの報復である事を。正しい道を歩めなかった男の恐ろしさを。
強姦された自分に新しく縁談が舞い込んで来るわけなく、実家も自分を持て余しているのが伝わってくる。
もうクリスチャニアには居たくなかった。
そうだ、交通が不便な北部に移ろう。適当な姓を借りて、愛しい娘とオーロラを見上げて暮らそう。
逃げるように行き先を親にも告げずに、愛しい娘と新入りの何も知らない女中と3人で、雪降るクリスチャニアから消息を絶った。
アストリッドを守れるのは、自分だけなのだから。この命に、自分と同じ思いをさせたくなかった。
***
ロヴィーサの口から語られる言葉が終わるまで、アストリッド・グローヴェンは一言も口を開かなかった。
「……」
自分の背中の火傷にこんな凄惨な経緯が存在していたのか。痛みなど無かった筈の背中がズキッと傷んだ気がした。
だから母はクリスチャニアから北部に移ったのだ。
殆どの交通が遮断されているこの場所は、逃げるにはうってつけだから。決してクリスチャニアに近付かなかったのも、父の話を嫌がった事もそうなのだろう。
「だから私は貴女を守る為、何としてでも音楽をやらせたくなかったのよ。いつあの男に会うかも分からない音楽なんてやらせるわけにはいかないの! そうじゃなくても音楽は男社会。卑劣な嫌がらせだって次々とされるに決まっているわ!」
「お母様……」
自分がまだ物心付く前の騒動。顔も知らぬ父親。
正直ピンとは来ていないが、ロヴィーサが自分を大切に思ってくれている事は良く分かった。喧嘩ばかりしていたと言うのに、愛してくれていた事も。
「……有り難う。でも私お母様を許せないわ」
けれど、不思議だ。あの青年の時のように母親を許そうとは思えなかった。
それは今までの悲しみか、リーナを殺したからか。月日は母に父と同じ道を歩ませていると言うのに、母はそれに気が付いていない。
どんな話をされようが、リーナはもう戻って来ないのだ。
「別に貴女に許して貰わなくても良いの。貴女が音楽をやらない、それだけで十分貴女を守ってあげられるのだから」
ふう、とロヴィーサは重い息を吐くと、リーナの部屋に居た女中に「もう出て来て良いわよ!」と語調強く声をかける。
「あーっ」
すぐに笑顔のレオンが這い出て来て自分に抱っこをせがんできたので、それを叶えるように抱き上げる。
「これで理由は話したわよ。さ、あの男がクリスチャニアに行くまで地下牢に居て頂戴」
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