48 「止めてっ! 蹴らないでっ!」

「そんな訳無いでしょう!!」


 話を聞いて欲しくてバンッ! と母親の腕を振り払い、声を張り上げる。余りにもその声が大きかったのか、女中に抱き抱えられていたレオンが怯え「うあああん!」と泣き出した。

 その声にハッとした。

 何時もと同じ方法で何かが変わる訳がない。母に話を聞いて欲しいのなら、何時もと違う事をしなければならない。

 そのことに気付き、一度ぐっと拳を握って深呼吸をした。


「親に向かって――」

「お母様、私ずっと不思議だったの」


 だから、自分でも驚くくらい落ち着いた声を出す事が出来た。激昂しかけていたロヴィーサも口を閉じ、唇をもごつかせながらもこちらを見ていた。


「お母様は私に、ピアノではなく音楽をやらせないって言う事、気付いてた? それってお母様はピアノではなくて音楽が憎かったからなのでしょう? どうして? 今までは言わなくても良かったかもしれない。でも、人が1人死んでしまっているのよ。もうだんまりでは私は納得しません。教えて!」


 自分が喋り終わった後、廊下はレオンが泣く声以外、音が無かった。自分の目をずっと見ていた母が少しして、観念したようにぽつりとロヴィーサが呟く。


「……そうよ」


 一度深呼吸をした後、ロヴィーサは観念したように大人しくなった。僅かに伏せた瞳が見ているのは、何もない白い壁で。

 数秒黙り込み、泣き続けるレオンを抱える女中に「リーナの部屋に下がってて」と命じる。

 女中が扉を閉める音が廊下に響くとレオンの泣き声も遠くなり、母子2人だけが板張りの廊下の上に立つ事となった。


「ああ嫌だ嫌だ……」


 ロヴィーサは一度深い深い溜め息を吐いた後、ゆっくりと顔を上げた。自分と同じ緑色の瞳が向けられ、唾を飲み込んでいた。

 一拍後、ポツリと唇が開かれた。


「私が音楽が嫌いなのは、貴女の父親――マグヌスが音楽家だからよ」


***


「やってられっかっ!」


 クリスチャニアにある煉瓦造りの屋敷に、夫の怒声と瓶を割る音が響いたのは冬の夜だった。


「っ!」


 ロヴィーサは慌てて暖炉を掻き回していた火かき棒を置き、腕の中を見下ろす。アストリッドと名付けた愛しい娘はまだ生を受けてから半年。自分よりも大切な温もりを守るように抱え直す。

 舞踏会で素敵な音楽家の男爵と恋に落ち、親に伺いも立てず結婚し、家を飛び出し男爵家に身を寄せた。

 家族で過ごす為に用意させた部屋、掃除やシーツ交換以外は使用人には外して貰っているので今この部屋には3人しか居ない。


「どうしたのよ、マグヌス」

「今日の公演の入りが少なかったんだ、それをオーナーの奴、俺の知名度のせいにしやがってぇ……ひっく」


 木製テーブルの上にあった酒瓶が消えていて、床に敷いている茶色いカーペットの上に割れたガラスが散乱している。毎晩のように見てる、見たくない光景。


「だからって空き瓶に当たる事無いでしょう……」


 今夜も始まったか、と呆れて呟いた――が。


「うるせえっ!」

「きゃっ!」


 いきなり頬を張られ倒れた自分の背中を泥酔したマグヌスは、雪だるまを崩す時のように遠慮なく蹴り付ける。

 ノルウェー人は酒を飲むと性格が変わると良く揶揄られるが、それにしてもまさか夫に酒乱の気があるとは思わなかった。海近くのホールで行われた舞踏会で会った時は、もっと理知的なトロンボーン奏者で、物知りな男爵だったのに。


「うるせぇうるせぇうるせぇ!」

「っ!」


 普段夫は物に当たる。自分に――家族に暴力を振るうのは初めてだ。蹴り続けられる背中だけではなく、最愛の夫に暴力を振るわれたという事実に肉体も心も痛んだ。


「止めてっ! 蹴らないでっ!」


 抱えているアストリッドも一緒になって倒れたからだろう。どこかぶつかったのか、わんわんと泣き出した。


「うあああああああん!」

「あああうるせー!! こいつのせいで夜中眠れないから俺が下手になるんだ!」


 夫の理不尽な怒りの矛先が娘に向けられ、顔から血の気が引いた。こんなに酒に溺れた人の目に留まらせていい存在ではない。なんとしてでもアストリッドを守らなければ。


「止めて、自分の娘のせいにしないでよ!」

「うるせえ!」

「アストリッドッ!」


 腕の中からグイッと娘を取り上げられた。夫はそのまま暖炉の元に近づく。

 火で照らされた夫の口角が不気味に持ち上がっている。出会ってから初めて、愛していた男の事を悪魔だと思った。

 暖炉で踊る橙色の炎に不吉な予感が胸を過ぎり、夫の足元にすがりつく。


「何をするの、止めて! お願い! 誰かっ! 助けて!」

「うるせえ。お前もきゃんきゃんきゃんきゃん犬みてえにうるせえんだよ。そんな女にはお仕置きが必要だなあ!!」

「うっ!」


 もう一度強く蹴り飛ばされたのと同時、夫は暖炉の中から橙色に熱された火かき棒を取り出した。アストリッドがぐずったからと、先程取り出し忘れた物だ。

 脳の奥に警鐘を鳴らす色を目にし、一気に血の気が引いた。


「止めて!」

「やあああああああああああ!!」


 自分の叫び声と風を切る音。じゅっと言う聞き慣れぬ音と、アストリッドの烈火のような泣き声。

 それらが室内に響いたのは同時だった。


「やああああああああああああああ!!」


 マグヌスを見ると、首根っこを押さえた猫が如くぶら下げた娘の背を、火かき棒で何度も何度も叩いているところだった。まるでシンバルのように、何度も何度も。

 じゅっと肉が焦げる臭いは娘の背から漂って来ている。その事実に頭が真っ白になった。


「ロヴィーサ様! どうされましたか!」

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