36 「すみませんっ、カリンの陣痛が始まりました!!」

 ――僕に何かあったらお腹の子を頼んだよ。


 あの時の夫の気持ちが今なら分かった。夫は心からお腹の子を守りたかったのだ。

 私が守るから、と心の中でもう一度誓い、アストリッドへの手紙を懐に忍ばせた。


***


 ウィルがカウトケイノに来てから4日、カリンの出産予定日から2日が過ぎた。

 いつ陣痛が始まってもおかしくない。樫で出来た扉の奥の寝室には常にタオルや毛布、へその緒を結ぶ為の良くなめされた革紐まで用意されている。

 赤髪の少女は暇があるとピアノの前に座って様々な曲を弾いていた。ベートーベンの「エリーゼのために」や、リストの「愛の夢」は少女のお気に入りのようで、毎日演奏していた。

 それらは極寒で気が張った住人達に一時の安らぎを与えている。笑顔で奏でているその音は近隣の住民にも、隣の牧場のトナカイにだって好評で、高原の町でちょっとした噂になっていた。

 時折音が外れる事があり、その度アストリッドは恥ずかしそうに笑っていて、それも可愛かった。

 自分も常にピアノの音に耳を傾けていたかったが、この家に寄った目的を考えるとそうも行かず。大分腰の痛みが取れた父親に連れられて、助産婦の家の行き方や買い出しに便利な店などの地理を教わっていた。


「助産婦の家に呼びに行くのは俺の役目になりそうですよ」


 そんな事を客部屋で隣の少女に言ったのは、空に白と水色のオーロラがかかっている夜だった。アストリッドは分娩に備えて常に母親の部屋で一緒に寝ているので、雑談をしに少女がこの部屋に足を踏み入れたのは久しぶりだ。

 今は客部屋でこっそりと、素敵な音のお礼だと隣家から貰ったミントのシロップで割った炭酸を飲んでいる。今日の夕飯はアストリッドの嫌いなセロリ――何食わぬ顔で皿に載せられた――だった為、口直しらしい。


「お父さんはまだ雪の上を走るのは怖いようですからね」

「ふふふっ。お父さんだなんて、あの物静かな人と大分仲良くなったのね」


 自分の言葉にアストリッドはクスリと笑う。この家の主人は家ではあまり口を開かないので、少々意外だったようだ。


「外では結構口数の多い方ですよ? 昼なんて、出産が終わったら酒場に飲みに行こうって誘われました。魔法使いがお酒を飲むのはタブーなので断り――」


 もう少しで話し終わる、その時。

 空気を震わす怒号が扉の向こうから聞こえてきた。


「陣痛が始まったよ! ウィル、お願い!」


 母親の切羽詰まった顔に2人してハッとなり、勢い良く顔を上げる。隣の青色の瞳が不安そうにこちらを見つめているのが見えた。


「行って来ます!」

「お願いっ!」


 慌てて立ち上がり、ランタンと杖を持って玄関を出る。

 雪が降っているカウトケイノは一層寒く、凍えた空気が肺に刺さる。視界の悪さに辟易しながら教えられた林道を抜け、助産婦の赤い家に向かう。雪道を走るのにピッケルが心強かった。


「すみません、カリンの陣痛が始まりましたっ!」


 ノルウェーの住宅は換気をしている事が多いので、まだ玄関前に到着していない自分の声が助産婦の耳に届く可能性がある。そう思って声を上げていた。


「すみませんっ、カリンの陣痛が始まりました!!」


 もう一度声を張り事態を伝える。

 数秒後。

 自分が扉の前に立つ前にガチャリと玄関が開き、中からランタンを持った白髪の老婆――助産婦だ――が出てくる。どうやら自分の声はきちんと届いていたようだ。


「カリンの、陣痛が……っ」


 息の切れた声で繰り返す。同じ事しか言えない自分に呆れたが、寒さに一度身を震わせた助産婦が大きく頷いたのを見てホッとした。


「行きましょう」

「はいっ!」


 赤いストールを肩に巻いた助産婦の凛とした声が耳に届き、共に走り出す。


「っ!」


 ――それだけに。

 林道を抜けた先、牧場を見つめて唸っている4本足の群れが居る事に気が付いた時は心臓が跳ね上がった。


「っ、狼?」


 どうやらそのようだ。行きには居なかっただけに、どうして今、という気持ちが拭えない。

 空腹の狼の群れを横切らせて貰うわけにはいかない。

 自分が注意を引いている間に助産婦だけ家に向かって貰うのが良いだろう。しかし、野犬ですら手こずった自分にどれだけ注意が引けると言うのか。

 ちらっと横を見ると助産婦が困った顔を浮かべて狼達を見つめていた。この人は一刻も早く出産を手伝うべきなのに、と歯噛みする。


「……貴女は先に向かってて下さい!」


 サーミ人達は狼を追い払う時どうやっていただろうか。

 彼らは狼を追い払った時棍棒を使っていた。シンプルに声を張り上げて威嚇するのが一番だ、と。


「うわあああ!」


 これだけの群れに、同じ方法がどれだけ効くかは分からない。恐ろしさはあったが、今はそんな物雪に埋めよう。

 杖を持った自分が狼の群れに突入したのを見た助産婦は、ばっと青い家のある方に駆け出してくれていた。


「……動物に魔法は使いたくないんだって……」


 ぼそりと呟き、こちらを映している数多の瞳に向き直った。

 助産婦ほど自分は急いで家に行かなくても良いのだが、それでも控えているべき必要な存在ではある。アストリッドにそう頼まれた。


「どう切り抜けるかな……」


 1歩後ろに下がりながら、思考をまとめるように呟いていた。

 ここは山奥ではない、高原の町カウトケイノだ。あの頃と同じ方法は取れない。

 強い風に被っていたフードが外れるのを感じながら、杖を握りしめる手に力を込めた。


***


 カリンが破水してからと言うものの、後は眠るだけだった三角屋根の家は一転、常に誰かが悲鳴を上げている家に変わった。

 もっと大きいタオルが欲しい、もっと湯を沸かして欲しい、お父さんは寝室に入るな、などだ。


「産婆はまだなのかい!?」

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