37 「泣か……ない……」

「まだ、です……!」


 助産婦がまだ家に到着していない。時計の針はさほど動いていないと言うのに、痛い痛いと叫ぶ声を聞くと気が逸る。


「お待たせっ!」


 その時。

 バンッ! と玄関を開ける大きな音がして、嗄れた女性の声が家の中に響いた。どうやら産婆が到着したようだ。


「こっちだよ!」


 母親が怒鳴って返すと寝室の扉が開いた――のだが、扉の奥にウィルの姿が無い。


「森に狼の群れが居て、呼びに来てくれた子が注意を引いてくれている間に、少し遠回りして1人でここに来たんだ。遅くなってすまないね」


 慣れた様子でたらいや毛布の位置を調節しながら、産婆が母親に謝っている。

 ではあの野犬も追い払うのに手こずる青年は今、狼に囲まれていると言うのだろうか。

 助けに行きたいと一瞬思ったが、お腹の子は出てくるのを待ってくれないし、自分だって散らかった室内を片付ける役目があるので我慢した。野犬の時だって少し遅れて来てくれたのだし、今回も大丈夫だろう。


「クララ! これを洗ってきて! お湯も淹れて来てね!」

「あ、はい!」


 カリンが顔を顰めている寝台の横、母親が汚れた水とタオルが入ったたらいをこちらに渡してくる。流しに行こうと寝台を出て――厨房で父親と湯を沸かしている金髪の青年が居た事に目を丸くした。


「え……ウィル? 狼に遭ったと聞いたけど大丈夫だったの?」


 割り込むように厨房で洗い物をしながら尋ねる。産婆の口ぶりだとまだまだ外に居るのだと思っていた。幽霊でも見ている気分だ。


「ああ、先程追い払いましたよ。もう家に居ますから何かあったら呼んで下さいね」

「あ……そう? うん分かった、有り難う」


 平然と返され少し気が抜けたし釈然としない物もあったが、雑談はしていられない。首を傾げながら沸いた湯を持って慎重に寝室に戻り、ボロボロ涙を流して激痛に耐えているカリンの元に戻った。


「痛い痛いっ!!」


 思ってた以上に分娩の手伝いを出来なかった。頑張れ、とカリンに声を掛けたり産婆に言われた物を持ってくる事しか出来ない。

 白くなる程キツく母親の手を握り締め痛みに耐えている。ふとロヴィーサもこのような思いをして自分を産んだのかと胸をよぎった。気位の高いあの人が、こんなに顔を歪ませて。


「頑張って下さい、頭が出て来ましたよ!」

「受け止めは任せて! クララ! 鋏と吸引用の管の用意をお願いっ!」

「は……はい!」


 ルーベンとカリンと同じ金色の髪をした赤子の上半身が見える――へその緒が首に絡まっている。


「やっ、く、首がっ!」

「大丈夫、良くある事よ」


 産婆は落ち着いて慎重に外していたが、見ているこちらは胸が締め付けられて、苦しくて息が上手く吸えなかった。一緒に出てきた胎盤も血みどろでクラクラする。

 無理矢理顔を逸し、熱湯消毒を行っているたらいから鋏を抜き取り、清潔なタオルで水気を拭いて産婆の隣に置く。赤子は男児のようだ。


「ふぅ……」


 これでもう一安心だと、安堵の息を静かな部屋に響かせ――まだ終わっていない事に気が付いた。


「泣か……ない……」


 その事実に気が付いた時背筋が凍った。

 朦朧としながらぐったりと横たわっているカリンも、こちらに心配そうな眼差しを向けている。


「喉に羊水が詰まってるんだわ……吸引用の管をおくれっ!」

「は、はいっ!」


 産婆が取り上げたばかりの赤子の喉に管を挿れ、頬をへこませては吸った水をたらいに吐き出し始めた。何度もその行為を行いもう吐き出す物も無くなったというのに、男児はうんともすんとも言わないし、顔も紫色だ。


「泣いて……私の赤ちゃん……」


 朦朧と唇を動かしているカリンの声は、どんな祈りよりも悲しくて涙に濡れていた。

 ウィルだ。

 こういう時の為に居る事にした青年。あの魔法使いならこの赤子に生を与えられる事が出来る。


「ウィ――!!」


 胸を占めるこの不安を終わらせて欲しくて、扉に駆け寄って魔法使いの名前を呼びかけた、その時。


「おぎゃー!!」


 己の存在を刻むように泣き叫ぶ声が室内に響いた。

 自分の声を遮る程大きいその声は、張り詰めた室内の空気を和らげる力を持っていて。ふう、と産婆が大きな声で安堵の息を漏らすのが聞こえて来た。

 振り返ると、母親がうわああと幼子のように声を上げて泣いていた。寝台で横になっているカリンの目元も光っている。

 その光景を見て自分も体の力が抜けていく。


「良かった……」


 おぎゃあおぎゃあと泣く男児の顔色が見る間に良くなっていく。

 泣き声が止まない。その音は今まで聞いた中で1番美しく、輝きに満ちていた。


「良かっ、た……!」


 気付けば立っていられる事が出来なくなっていた。板張りの床にへたへたと座り込み、目から涙が止まらなかった。

 産婆が寝室にへその緒を切るジョキリという音を響かせると、切り口に血が滲んだ。


「ふう。おめでとう、元気な男の子だよ。さ、抱いておやり」


 分娩中はずっと眉を顰めていた産婆が腕に男児を抱き、頬を持ち上げながらカリンに話し掛けていた。

 己の子供を腕に抱いた誕生したばかりの母親は、世界で1番愛しい物を見るように目を細めている。

 自分はこの日の事を、一生忘れないだろう。




 男児が産まれたのが深夜だった事もあり、家は朝まで慌ただしかった。

 一段落ついてからは糸が切れたように眠りにつき、晩まで寝ていた。軽めの夕食を頂き、ウィルが淹れてくれたコーヒーカップを持って客室の椅子に腰を下ろし息をつく。


「久しぶり、って程でも無いんだけど、久しぶり」

「そうですね、お久しぶりです。そしてお疲れ様でした。産声が寝室から聞こえて来た時、お父さん泣いていましたよ。……まあ俺もなんですけど」


 向かいの席に座っているウィルの目元が緩んでいる。

 カリンの体調は安定している。

 ルーベンが危惧していたような事は起こらず彼の魔法は使わずじまいだったのだが、彼は文句を言うでもなく「なんにもなくて良かったです」と微笑んでいた。


「私もああやって産まれて来たんだね。なんか感動しちゃった。ウィルにも聞こえたのね、あの産声の力強さ! ルーベンさんに目元が良く似てるのも不思議!」


 温かいコーヒーを喉に流すとそれだけでホッとする。

 気付けば好きなピアノ曲について話す時のように早口になっていたが、ウィルは都度頷いて話を聞いてくれていた。


「あ、そういえば貴方、狼は大丈夫だったの?」

「はい。以前野犬に襲われた時、貴女は俺に浮けば良い、と言ったでしょう。林道に引き返してそれを実践したんです。暗くて助かりました。貴女は何時も俺の世界を広げてくれますよね」


 青年は照れ臭そうに笑った後コーヒーを飲んでいたが、自分はその言葉に引っかかりを覚え瞬いた。


「ん? 何時も……?」

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