35 「僕に何かあったらお腹の子を頼んだよ」
彼らはこれから、カウトケイノでサーミ人が受けている理不尽な弾圧に抗議する暴動を行おうとしていた。だからこの村に住むサーミ人も参加して欲しい――自分は妊婦だから請われなかった――と強く言ってきて、彼らの主張に同意したレオンは暴動への参加を決めたのだ。
サーミ人の扱いは確かに改善されてほしい。そもそもスカンディナヴィア半島北部に先に住んでいたのは自分達だ。
これだけ大きいサーミ人の抗議は初めてなので、明日は無理でも数十年後には人々も目が覚めていくだろう。しかし、何も刑務所入りになるかもしれない事にレオンが参加する事は無い。
そんな思いもあり、先程から玄関で押し問答を繰り返している。
「確かに数年は刑務所に入るかもしれない。でも、意味のある刑務所入りになると思うよ?」
離すまいと腕を掴んでいる茶色い癖毛の青年は重苦しい空気の漂う屋内、白夜を満喫している人々のようにカラッと笑う。
「だから僕は行くよ、止めないで」
「レオン! 駄目、行かないで!」
レオンの言っている事は分かる。自分だってお腹の子にはこの世界を楽しんで欲しい。生きるのが好きだと思って欲しい。が、そこにレオンも居なければ意味が無いのだ。
「ごめんね、迷惑かけるよ」
しかし夫の決意は固い。お腹の子の未来の為、と頑なに首を横に振っている。
次の瞬間。
迷いを断ち切るように、パンっ! と手を振り払われ、レオンが玄関の外に出て行ってしまった。その一瞬の隙に、牢屋の扉を閉めるように勢い良く玄関を閉められてしまう。
「レオン!」
悲鳴を上げ急いで扉を開けると、夫は少し離れた所に待機している馬車に乗ろうとしていた。飛び出そうとしたが、成り行きを見守っていたお腹が膨らんだサーミ女性達が慌てて自分を止めにくる。
「僕に何かあったらお腹の子を頼んだよ」
そうニコリと笑った後、レオンは馬車の中に消えていった。
「レオン! レオンッ!」
足を止めて欲しい一心で、喉が張り裂けんばかりに夫の名前を呼ぶ。しかし夫が振り返る事はもう無かった。馬車の扉がピシャリと閉まる直前、最後に見えたのは茶色い毛皮のコートを着た夫の背。
どうして泣いている自分を置いていくのか分からなかった。大好きだった正義感の強さも、今は大嫌いだ。確かに必要な事かもしれないが、だからといって割り切れる程自分の心は強くない。
「レオン! レオーンッ!!」
どんなに泣き叫んでも、走り出した馬車から人が降りてくる気配はなく。馬車が離れていく時、今年初めての緑色の光のカーテンが空に掛かっては数十秒で消えていく。
「レオン、レオン……っ!」
濡れた頬を冷た風が撫でていく。
自分を羽交締めにしている妊婦も一緒になって涙を流していてまた泣いた。置いていかれる悲しさを、冷たい風は慰めてくれない。
「っ、レオン……勝手すぎるよぉ……っ」
この時、「お母さんしっかりしてよ」と言わんばかりの胎動を感じた。
そうだ、レオンが帰って来るまで自分はこの子を守らないといけない。この子は自分しか守れないのだから。レオンだってすぐに帰って来る筈。
そう思っているのに涙が止まらない自分に、冬の夜はどこまでも残酷だった。
3日後の夜にレオンは帰って来たけれど、その唇が自分の名前を呼んでくれる事はもう無かったのだから。
***
遊牧で山奥に居た頃。部落の母親思いの青年が、初老のノアイデが不思議な力で伐採をしていた所を目撃した、と神妙な面持ちで話していた。
嘘を吐くような人では無かったので、ノアイデは今も昔話とは姿を変えて実在するのだろうとずっと思っていた。だからかルーベンの口からノアイデの存在が語られた時は、驚きよりも嬉しさが勝った。
ノアイデがアストリッドの側に居るから、アストリッドが地下牢を脱出出来た。きっとこちらの会話は筒抜けだったろうから、あの令嬢に逃げるように勧告出来たのだ。ここに居たら監禁されてしまう、と。
ノアイデの存在に嬉しくなったものの、1つ許せない事があった。
それは、ノアイデがアストリッドに嘘をついているだろう事だ。
こちらの会話が筒抜けであるなら、アストリッドはレオンの状況を把握している筈。あの令嬢の性格上、高熱のレオンを自分のせいで見捨てて遠くに行く事は出来ないだろうに、彼女はトロムソに戻って来る事は無かった。
それはアストリッドがレオンの事をノアイデから聞かされていないと言う事。嘘を吐いているのか、事情があるのかまでは分からない。
けれどもう、そんな事どうでも良かった。
レオンはもう大丈夫だから。
「レオン……もうすぐだからね」
先程ロヴィーサが、アストリッドが戻り次第レオンを医者に診せに行く事を改めて約束してくれた。
と、なると後1週間。そこさえ持ちこたえてくれればもう安心だ。ロヴィーサが考えた方法なら、アストリッドは絶対に帰って来る。
それに、レオンは自分が母親で居るよりもずっと良い生活が送れるようになるだろう。それもどうしようもなく嬉しかった。
「レオン、大好きだよ……」
呟き、火照った手を両手で握り締め「もう少し耐えて欲しい」と祈りを捧げる。
息子に会えなくなるのは寂しかったが、不思議と悲しくは無かった。息子が助かる事の方がずっと嬉しかったから。
先程アストリッドに宛てた手紙を書いた。
背が伸びたレオンに宛てた手紙も書いた。後はカウトケイノに旅立つだけだ。
「元気でね」
最後にそう呟き、小さくて柔らかい手を離した。立ち上がって部屋を後にする。
部屋を出る直前振り返り、横になっている息子を見た。
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