よろしくな
主審の声が聞こえる。
対するは剛力。目が血走っていた。
キャッチャーポジションには麻元がついている。彼はサインを出す。
フォークボール。従うつもりだ。高峰修は、振りの大きいサイドスロー気味のスリークォーターでボールを放った。
ストライク。剛力がバットを剣道のようにまっすぐ振るってこちらに構える。
麻元のハンドサインが見えた時、次に放つ球はカーブに決まった。
振りかぶり、投げた時、感覚が走った。
……打たれる。
瞬間、思考がひらめき、身体が電流を帯びて跳びあがり、ミットを構えた、そこに鋭い直線を描いたボールがすっぽりとはまり、着地と同時に旋回、同時にボールを一塁へ送球し、球は一塁がキャッチして剛力にタッチした。
「ダブルプレー!」
『いきなりのダブルプレーです!全く人が変わったような鋭い動き!とんでもなく面白い展開になりましたぁー!』
スタジアムはざわつき、そして歓声が倍になってこだましている。
戻ってきた。
そう思った。
再び俺は戻ってきた。
どんな結果になっても、次に交代と言われたとしても、高峰はもう、今投げ切ろうと思っていた。
次の選手が打席に立つ。それはもはや、脅威になりえなかった。
関心にさえ、なりえなかった。
振りかぶり、投げる。
快音を轟かし、麻元のミットにボールが吸い込まれていく。悠々と振り回されるバットの軌道を回避して、敵を打ち取る。
『何という事でしょう。七回から登板した高峰の初回ダブルプレーから明らかにアベンジスが息を吹き返しました!なんと無失点!これが高峰修!地獄から舞い戻った男の放つ投球が、今宵再びアベンジスを救いました!ゼロ対ニで試合終了!アベンジス大勝利!』
ピッチャーマウンドから見える、全ての光景が新しい。
麻元と溝井の晴れやかな顔が見える。澄田の戸惑いも他の選手の困惑した顔も見える。あの胴上げでは何もわからなかった、見えなかったものが今見える。
歓声の一つ一つ、その声にかかった期待が見える。あの声一筋一筋に、それぞれが抱えた人生がある。
絶望がある。
希望がある。
喜びも憂鬱も、すべてが人生にある。
それを自分は偶然にして、この日この瞬間ここに来てくれた人に対して、テレビの前で見ている人に対して、ただ一つの責任を背負ったに過ぎなかった。人生の主役はここに集まったすべての人にあるのだから。そうして高峰は、一筋だけ汗とは言えないひとしずくを流した。
立ちすくむように天井を仰ぎ、そしてキャップを脱いで一礼すると深々と被り直してその場を去った。
ベンチに向かって走り、仲間の祝福を受けた。
「よかったな、高峰」
麻元はそう言った。
その伸ばした手が置いた肩に自分の手を乗せて答えた。
「分かりました。麻元さん。あなたの言ったことが解りました」
「そうか。いつもより周りをよく見てたしな」
彼を信じて投げたこの試合に。
「次も頑張れ」
全力で生きれて良かった。
『会場の皆さま、ヒーローインタビューです。本日は溝井選手と高峰選手にお越しいただきました。よろしくお願いします。まずは高峰選手、選手交代してから相手チームに一打も許さない素晴らしいピッチング、お見事でした』
歓声と拍手がまた会場を包む。
高峰はマイクを少しだけ見ると、インタビュアーに向かって言った。何もかも切り取られるなら無難に話すつもりだった。
『ありがとうございます。今日はね、まあ、見てくれる方に申し訳のないことはもうできないと思って、えー死ぬ気でやりました』
『その思い、きっと届いたと思いますよどうですか皆さん!』
テンションの高いインタビュアーの声に呼応してもう一度拍手が鳴る。申し訳なくて、自然と高峰はお辞儀して答えた。
『ありがとうございます』
スタジアムの観客から声援が聞こえてくる。
そしてインタビュアーは、もう何べん聞いたか分かりもしない手垢のついた質問を高峰に投げかけた。
『今、テレビの前で見ている人たちに何を伝えたいですか?』
『正直な話です』
そう言って高峰は切り出した。
適当な言葉ではぐらかすのはやめようと思った。
『正直この三か月、他人に乗っ取られたかのように正気を失っていました。僕のせいで傷ついた人がいるかもしれないけど、やり直せない。だからせめてこの試合だけは、勝ちたいと思っていました。何かの代わりになるなんて、思わないですが……』
スタジアムから歓声は戻ってこなかった。皆表情は困惑していたように思う。何万人もの客を収容するスタジアムは、息をのむ神妙さに包まれて、そして過ぎたことを言った後に分った。だから終わらせた。
『僕もまた全力で毎試合臨みます。次も勝ちます。以上です』
『あ、ありがとうございましたー!』
キリが良くなって大観衆は、パラパラと拍手をし、ショーとしての体裁は取り戻した。
『それでは今試合、膠着状態から一点を得るヒットを放ちチームに貢献しました、溝井選手はいかがですか?』
『いやー驚いてます。高峰さんが途中で余りにも声を出してくるから……。冷静な人だと思ってたから、ちょっと、びっくりした』
と言って高峰にはにかんだ笑いを見せる。
『でもおかげで本調子出せました。また一生懸命プレーしますので見守ってほしいですね』
高峰よりも大きい拍手が起こり、インタビューは終わった。
ベンチより奥の通路を通って、選手たちは身支度を始め、淡々と
終えてブルゾンをまとい、バッグを持って歩いていく。
そこには小畑監督が、腕を組まずにこちらを見ていた。
「本日はありがとうございました」
高峰はキャップを取って深々とお辞儀をした。
「おォ」
と言い、何も言わなかったが、少しの沈黙の間向かい合うと間が持たなくなって少し不安になる。監督は何を考えているか、分らないわけではないのに相対すと突き放されたようにも感じる。
「お前が正真正銘の高峰修じゃ。目がちごうとるけえのォ」
と健康な方の肩をどんと叩かれた。
「おかえりィ」
監督は最後の最後で笑んだ。
「澄田のガキを育てろよォ。まあよろしくなァ」
高峰はそこで初めて、こらえきれずに肩を震わせた。
そして監督とも別れて廊下を歩いた。
「お疲れ様です」
「ピッチングが戻ると口下手になるってSNSで話題になってんぞ。あとあのヒーローインタビュー?球史に残るな」
麻元と道が一緒になり、彼は白い歯を見せる。
「謎すぎるだろ。お前らしくて、いいけどさ」
高峰は後ろ髪引かれる思いを断ち切るつもりでこう言った。
「壊れたものは戻らないですから」
「壊れた?」
「ええ。一度失った信用も戻らない」
「そうかな」
麻元は言った。そして突如麻元のポケットにあったスマホが鳴り、彼はそれを耳に当てて、一オクターブ高い声で話し始めた。
「うん、ちょっと待ってねー。うんうん」
と言って高峰を向くとこう言った。
「すまん。嫁さんから電話かかった。とにかく思いつめるな。今日はゆっくり帰るんだぞ」
やけにゆっくりという言葉を強調して麻元は言った。
そして麻元もいなくなった。
その頃には、ほとんど全ての人間が家に帰った。
スタジアムは嘘のように静寂に包まれ、ライトは消え、必要最低限の光だけがここから帰る関係者たちの家路を導いていた。
赤い車じゃなく、黒いティガーXLが偉そうに停まった駐車場に向かって歩こうとした。疲れても、高峰にはプロ野球選手としての察知する力があって、その後ろに、人が立っているのを高峰は感じた。
照明から外れたところにいた人影は、ジュースとコーヒーを売っている自販機の前に立っていた。振り返り、それがよく知った女性の影であることが分かった。
高峰はそこに立ったまま動けなかった。
その表情だけが、自販機の光に照らされている。
高峰修は、やっとのことで、その女性(ひと)の名前を呼んだ。
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