最低の状況
――――声をあげそうになって起きた。
ある朝。
不可解な夢から醒める。
すると、自分がいつもと違うベッドの上にうつぶせになっていると気付いた。体中にあったしびれはもうない。夢の中で感じた高揚も、もうなかった。
外はまだ暗い。しかし部屋の明かりは点けっぱなしだ。
多少はだるさがあるものの、それ以外は快調だ。寝違えた身体をストレッチして、よく鍛え上げられた青年の体であることをそこで理解した。頭の痛みも去った。偏頭痛はもうない。こめかみから頭蓋骨、痛みが脳へ、そして全身に向かって軽やかに感覚が広がっていく。鼻から息を吸うと入り込む空気は冷たくて身体に透き通っていく。目をしばたくと光が入り込み、部屋は白色に見える。
あるべき肉体に、精神が帰ってきて、よくフィットしていた。
いつもより、思ったより、体が軽く、今までと同じ力で起き上がるはずが、ベッドから跳びあがった。
そして割れた鏡に映る自分自身を見た。
高峰修だ。
俺は、高峰修に戻った。
そして周囲を見渡して、喜びは驚きに変わった。
部屋は荒れ放題だった。
フィットネス器具も、机も、何もかもがなぎ倒されていた。
立ち上がろうとしたが、ベッドの周囲には割れたガラスが散らかっており、すぐに降りることはできない。
服巻。そう思い、怒りも沸きはした。いや、だがこの眼前の破壊の風景は、何だかとんでもなく荒廃した何かを予感させる恐怖のほうが勝った。
携帯はどこだ。
そう思った。どこにあるかはわからないがとりあえずガラスのない場所を見つけてベッドから降り、部屋を片付けながら周囲を伺う。部屋のフローリングには著しい傷がついている。ひどい有様だった。
スマホは掛布団と敷布団の間に埋もれていた。
五月一日。午前六時三十分。
スマホのロック画面のパスワードは例によって変わっていたのだが、側面にかけた親指の指紋に反応してロックが外れ、同時に自分でも信じられない速度でPINEを開く。
そこにいる登場人物は高峰の周囲の人間であったが、トークを開くと言葉は服巻そのものだった。そして大抵の場合、既読無視の状態になっていた。CMで会った俳優、数少ない仲のいい選手、高校の時の仲間、大学の交友関係、全てあらかた破壊しつくされていた。
そしてそこにある決まり文句は、
『信じてくれ』だった。
全く不可解だが、嫌な予感しかない。
とはいえ高峰にとって確認すべきことは一つだ。電話帳にあった球団マネージャーの番号にコールするためにボタンを押そうとした。
その時、ちょうど電話が着信する。
『麻元裕則』と書いてあった。即通話ボタンを押して耳に当てる。
『高峰!』
その声を聞いた瞬間、顔を覆って溢れる感情を抑え込もうとする。
『おい!今日は起きてるよな?』
「……はい。俺です。高峰です」
『知ってるよ!今日は遅れるなよ?あと変な物言いもするな。エースなのにそんな事じゃ、どこまで行っても独りぼっちだぞ!』
「麻元さん」
尋常でない鼻声で答える高峰修に、さすがの麻元の怒りも消えていくようだった。彼の呼吸は戻り、神妙な気配を出した。
『どうした?』
「身体、戻りました。僕が正真正銘の高峰修です」
麻元の頭の中で、何かの辻褄や整合性が合っていくのを感じているかのように、唾をのむ音が聞こえた。
『俺も混乱してるわ。全く入ってこん。お前のいう事』
「証明したい」
『とにかくグランディアまで来い。時間は分かるか?』
「九時ですか?」
『そうだ』
麻元は一言答えに加えた。
『タンパク質摂れよ。またな』
と言って切れた。電話の向こうを想像する限り、朝食前の隙間時間にかけてくれたのだろう。
場所には安心した。グランディアスタジアムはアベンジスの本拠だ。車で向かうことができることを思い出した。
この体に心が戻ったのか、心に体が戻ったのかよくわからないが、電話で口をついて九時という時間が出たことが解ると、紐づいたすべての経験がインストールされるかのように、脳裏に段々と思い出されてくるのを感じている。ただそれはそこにあるべきだった心が生み出す感情を持たない、録画映像のようだった。それは、忌むべき情報(服巻としての記憶)だった。
服巻は擬態に失敗した。あのキャンプで服巻と出会ったのをピークに、周りとそごを抱えはじめ、ペナントが始まってから馬脚を露わにしたことで、信用を失墜していく様が自在に思い出された。
その様子を口に出して反芻すると、記憶の解像度が上がり、映像が鮮明になっていくために、そのようにして高峰は、壊された部屋の中で言葉を紡いだ。
「つまり体と脳は高峰でも、それをコントロールする心は素人の服巻だったから……そうか、全てにおいて判断ミスを続けて、コンディションにも気を遣わず、反省の素振りも見せずにチームの中で孤立して」
もともと孤立気味だったところを実力で埋め合わせて成立させていたのだ。その破壊規模は大体想像がつく。
そして『彼女』との記憶は、高峰本人にとって陰惨なものだった。
「あの野郎」
部屋の奥にあった澪に用意された部屋は、すでに引き払われていた。当然のことながら彼女が居つくはずもない。
己の話をすれば、既に自分が服巻だったころのことを思い出せなかった。しかし澪との記憶のありかはこの脳の中にあった。何となくその情報は知っている気がする。そう感じた次の瞬間、記憶が――――演技ではない、何かを鋭く当てた彼女の表情が――――フラッシュバックして生々しく再生された。
ただ、彼女の声が何と言ったのかを『思い出せない』。
服巻の記憶の中では重要なものではなかったという事だろう。
ただ一つの真実は、こんな現実を作っておいて、もう会えるなどという期待は持たないほうがいいという確信だった。
その後自分の身分も弁えず、服巻は高峰の肉体でいろんな女を相手にしていた。部屋を壊されるより何よりも、この屈辱的な記憶は拭い去りたいが、それもできない。
いつの日かと思って置いていた婚約指輪もなかった。
澪と別れた時、脳の記憶をたどられて服巻が売り払ってしまった。
だが試合が近い。時間は待ってくれない。
とにかく必要最低限の掃除だけし、食料を求めて冷蔵庫を見る。おおよそ野球選手のために買いためた食材とは思えない、発想の貧しい物ばかりが置かれていた。冷蔵庫を閉めてやむを得ずコンビニに行こうとし、足を止めた。
プロ野球選手だ。せめて顔を隠さなければとマフラーとサングラスを身に着けて近所のコンビニに行く。
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