投了した人生

「お前も大変だな」

 ロナルドは表情一つ変えない。多分こいつはエコノミークラス症候群だとか、腰痛持ちだろうとか、そんな言葉がよぎる。

 服巻は既にセピアとなった空を見た。


 悲しくない訳がないじゃないか。

 辛くない訳がないじゃないか。


 このまま、この体のまま生きていくっていうのに。


 ふと、あの舞台にも立てないだろうな、そう服巻は思うたびに、誰にも明かせない胸の内を、このボロボロの人形の隣で空に解き放つだけだ。


 それでも生きていかねばならないという、プレッシャーだけがあった。

 ドロップアウトはできないという、執念にも似た苦しみがあった。

 どんな人生でも、淡々と続く不幸と幸福の中で、時に悲劇に打たれもがく、理不尽なことがあったとしても、誰を責めたってらちが明かない事を自分が一番知っていたから。


 だから、もう楽しむことにした。

 やけになったと言えばそれまでかもしれない。

 けれど、それもあと三十年か四十年か、そのくらいのことだ。

 高峰だろうと服巻だろうと、死からは逃れることはできないのだから。

死んだら仏だか天使だかに、ありったけの文句を言ってやればいいんだ。

 それまでは退屈だから、人生をできる限りいい気持ちで運用する必要があった。


 ボロ船同然のこの人生で得られるいいことを探す必要があった。

 服巻は自分を取り巻く人間達が善い人達であることを、認識できていない。自分だけがこんなに苦しんでいるという感覚に溺れていたからだ。

 結果が出ず、広背筋に悩まされたあの日の高峰の鏡のような奴だった。


 それでも、この身体になって気づいたこともあった。

 自ら人生を終わらせたところでこの意識は生き続けるという確信だった。


 あいつ、殴り殺せよ。

 宮崎で殴り殺されればよかったのに、まだ死んじゃいけないのか、いや、死ぬ勇気がないだけだから生きるしかないんだ。

交通事故、リストラ、離婚とか、天災に戦争とか、そんなもんでいい。

 宝くじでもいい、突然素晴らしい異性と出会ったとか、郵便受けに合格通知が入っていたとか、そんなものでもいい。

 今生きているこの生活は、簡単に壊される。

 明日の保証などない中で、皆生きている。

 何かが発動し、何の道しるべもない海に投げ込まれる。

 だから今ここにいることが確かじゃない、とすれば、今まで達成したあらゆることは奇跡的な瞬間の連続の上に偶然、あるとしか思えなかった。

 勝利の道を歩む中で、自分が負かしてきたすべての人の顔と、服巻を纏う自分の顔が重なって、俺もこんな気分を人に味わわせたのだろうかと、初めてそう考える。


 そんな問答を繰り返すうちに……心を越えた領域で、自分にとって楽か苦か、損か得かも越えた領域で、未来さえ見据え、その全てをロードマップとして把握し、どんな経験も、どんな体験も承知で、人生をある一つの結論に導こうとする何らかの意思があって、それが自分の人生を否おうなく引っ張り続けている事を感じ始めていた。

 

  宮崎の後、何で死ねなかったのか、それは簡単なことだ。

 ドロップアウトすることは、その否おうなく人生をけん引する自分を越えたロードマップを破棄することになるからだ。そうすればどうなると思う。

 人生そのものを裏切ることになる。

 ロードマップが破棄され、本当にさまよう精神のみが残されることになりはしないだろうか。


 だから生きることにした。

 そうじゃなきゃ週刊野球は捨てない。


 何故かわからないが、こうなってしまった人生について、服巻は語る口を持たない。

 でもこれは、自分に起こったことが大げさなだけで、誰にも起こりうることだと今は思える。

 突然の転落も低迷も、理不尽な運命も。誰にだって起こり得る。

 こんな事さえも、輝かしい光の中では考えることができない。

 今まで視界にも入らなかった、戦力外通告を受けた選手たち。

 自分が敗北させてきた選手たち。

 忌むべき憎むべき自分自身になって初めて、己の愚かしさに気づいて。


 でもそれでいいじゃないか。

 そうでもしなければ気づくものか。

 この出来事に出会えた自分は幸せだ。

 ここで立ち止まることができた自分は幸運なのだ。

 視界に広がる夕焼け空に向かって高峰は思った。

 

 この男は自分自身だ。

 抱きしめずにどこかへ残してきた自分そのものだと、子供のまま抹殺したことにしていた自分自身のエゴや優越感を、拡大したのがこの男であるにすぎないと知った。


 服巻の娘の珠莉が気になった。

 彼女は今どうしているんだろう。

 野球がなくなって、もはや高峰でもない。自分の心残りと言えばそれだけだった。電話帳に番号はなかったのは、接近が禁止されているからだろうと思っていたが、部屋の中にあった離婚調停の書類を見たところ、そのような文面はなかった。子供を呼び戻すような意思はなかったのだろう。

 自分の生(せい)でもないのに、後悔すら抱くあの日の一回限りの出会いが、彼女を傷つけなかったことを願うばかりだった。

 もはやその程度しかできることはない。

 俺にできることはその程度でしかない。

 輝かしい姿の自分では考えもしなかったことを、考えていた自分がそこにいた。


 そして彼は、メニュー表の片隅におまけのように書いてあったコーヒーを一口飲んで、目の前を歩く子犬を連れた初老の女性や、家族連れやカップルを見た。

 穏やかな気分だった。

 みんな、幸せでありますように。

 今この瞬間を幸せに生きていてさえくれれば。

 

 ああ。そうか。


 そこで初めて、どんなことか分かった気がした。


 何で自分が『交代』したのか。


 しなければならなかったのか。


 高峰はその瞬間、体のコントロールを失ってベンチから外れて地に伏した。

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