何でもない一日


「別になくてもいいんですけど、なんだか見ちゃうんですよね」

 しかし不思議と気持ちが引くことがわかる。そこにはもう、関心がないかのようにすぐ雑誌を伏せて、顔を上げた。

「きっと高峰と広橋澪は付き合ってたんだよ。でもうまくいかなくなった。それは君の周りでもよくある人同士の恋愛と変わらない。みんな騒ぎ立てるが、本当にそうなんだ」

「えー?そうですか?」

「違う?」

「違うと思いますよ?」

「まあ、いいんだ。それならそれで」

 そして服巻は、空気に言葉を乗せた。

「人生の時間は短いな。率直な感想だ」

 言いながら端末での作業を終えて、オフィス・フリコダホーからお菓子をワンコインで買って、一日日本栄養豆乳バーを買って、松浦の対面に立つことなく手だけをデスクに伸ばして置いた。歩く圧迫面接の自分が近寄るのは、自制した。

「あ。ちょっと、すいません」

 差し出された松浦は戸惑いながらも受け取る。その細い手と指を見届けた。

「いいから。こういうのも今の時代いいのか分からんけど」

「人にプレゼントするのはナニハラなんですかね」

「さあな。……同意ある?」

「あります!」

 冗談めかして松浦は答えた。

「ありがとう。俺もいつまでも生きてる訳じゃないんだ。人が喜ぶことをしたい」

 松浦は笑う。

「悟っちゃったんですね。服巻さん」

「縁起でもないことを言うなよ」

 ハハ、とこちらも笑って見せる。

「だってホントにこんな会話できないですもん、前なんて……」

 と、同じ内容をもう二回も喋っているこの子は、本当に驚いているんだなと実感する。でももういい。すまん。

「折田が優しかったからな」

「折田さんのおかげなんですか?」

 松浦はふっと笑って、音もたてずに丁寧にビニールを破いて、いただきますと言うと、小さく一口だけ、豆乳バーを食べた。

「あいつ、以前、仲間と県またぎに車を走らせて、広橋澪のライブを追っかけしてて、その時に食べた道の駅の食べ物とかその県の名所とか、色々回りながら、全員男で思い出を作ったのがきっかけで業界入ったらしい」

「折田さん、オタクなんですね?」

「え?知らない?」

「あんまり職場の人と話したりしないから」

「すまん、なんかばらしたかも」

「まあ、そんな感じだって思ってましたから、大丈夫です」

「秘密にしてくれ」

「はい。私口固いんで。あ、仕事ももう終わりそうです」

「そうか。俺、消灯の当番だから。端末落としたら知らせてくれ」

 と言って服巻は自分のデスクに戻るために背を向けた。


「人って変われるんですね」

 松浦が言って、服巻は、おうと答えた。まあ、人間が変わったというより、本当に入れ替わっただけなのだが。そう思いながら、服巻は答えた。すぐに端末をたたむと、ちょこんとしたお辞儀をして、松浦はカードを切り、退勤した。

 そうして何でもない一日を終えた。


 四月七日。プロ野球ではペナントレースが始まる時期だ。

 日本球界一流の野球選手、高峰修は一度敗れ地に塗れようとも、口では自分だけの夢を語りながらも、大一番で必ず当番すれば、自分の栄達より拾ってくれたアベンジスへの恩義に報いようと懸命に走って結果を出した。そんな日々が、雑誌の見開き二ページに光沢のあるカラーで蘇っているのを、自室のソファに座りながら見た。

 栄光はしばしばそのあるべき順序を逆転させてしまう。

 あの時は必死だったんだ。仕方がないと懐かしむ。


 そのピッチングが仕上がるまで、広背筋の痛みにも苦しめられ、一度は二軍に落ち、努力とは逆の方向に流れていく自分のキャリアと限界に恐れおののきながら、いやそうであればなおさら、彼は寄る辺も無い暗闇におぼろげに浮かぶはずの希望を信じなければ自分を保てなかった。

 自分を励まし、結果を追いかけずに一球一球に全力を傾ける日々。

 しかしそうするうち、自分を煩わす周りの声はいつしか消えた。  

 マウンドに立つ自分の中に夾雑物がなくなり、澄み切った意識がもたらされたとき、彼の身体をつかさどる心境(マインドセット)は完成した。それは復帰後、初めてウルトラズを三振に打ち取った剛速球を実戦で達成した時のことだった。

 思えば、プロ初登板のとき、二番手で一回を投げ無安打無失点に抑えたあの夜は喜びに侵されて判断を狂わされた。以後活躍し自リーグの最優秀新人に選出され、予想外の活躍をしたときは有頂天だった。しかし次の年、プロ入り初の開幕投手として登板したものの、五回に六失点を打たれ、負け投手となり、ぱったりと結果を出せず全く泥沼の一年を過ごした時は、夜も眠れなかった。

 焦りが焦りを呼び、そして大学時代の怪我が再発した。他の選手からも出遅れ、三試合連続失点し、二軍落ちと一軍復帰を繰り返す不安定な成績、最終的に一軍に留まるもマスコミにもファンにも見放される状況の中で、ひたすらに気持ちを立て直し続けた。


 服巻の部屋に残された、何十冊もの週刊野球の記事を追いながら、服巻は自分自身が野球人だったころの記憶を懐かしく思い出していた。

 そして今、ビニールのひもを十字に結んでその雑誌をまとめると、束二つを両手に持って部屋を出て、ダブルロックの扉を出た。 


 小道に行き、指定日を確認してごみ場所に思い出を置き、そこから去った。

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