さなぎ
今日も業務が終わり、服巻は全員から質問されたことをまとめたり、エクセルに落とし込んだりしていた。
まるでコーチだな。そんなことを思った。フロア奥のオフィス奥の廊下を通った先にあるこの部屋で鳴る音は、客には聞こえない。だからここはかつて服巻の怒声が響き渡っていた場所だった。今、そんなことは起こらない。
いたって静かだ。蛍光灯は節電のため、従業員のいる場所しか光っていない。自分の他にはあと一つだけ。店長他従業員は、別のフロアで書類をまとめたり、店を閉めているところだ。
「松浦くん、終わったか?」
「あとちょっとです」
「俺と店長よりは早く帰るんだぞ」
「それなら大丈夫です。やっちゃえます」
カタカタとPCのキーボードの音が聞こえる。
「安心した」
九時半、残務処理もそろそろ終える時間だ。ヤリミズではSNSでの内部告発によって世間から袋叩きにされた影響で、ここ二、三年頃から社内規定が厳しくなり、必要以上の残業は許されなくなったそうだ。それは以前が筆舌に尽くし難い程酷かったからだが、当事者の服巻は、その変化に何の反省もなくぶつくさと文句を垂れていたようである。
最初から全員のやる気を起こす責任は服巻にあったにも拘らず……などと言ってみたものの、自分も二月のあの日までは、その仕事からは逃げていた。自分のことしか考えていなかったから。
当然だ、生存したかった。地獄を見れば皆そうする。仕方ないことだ。しかし今、この体からは逃げられないことが解って、それでも死ぬという選択を採用しなかった以上、こういう生き方をするよりほかはないということをほんの少しでも肯定する以外に実は、救いなどないと解っていて、だから今は自分の生に対しても、生業に対しても極めて消極的にそう思い、今日の心の糊口をしのいで呼吸する。自分の意志で試合を止めることはできないから、自分自身を変えることにした。成果は出ているのか分からないが。
「服巻さん、本当に変わりましたよね」
「何が?」
「今はもう、こうやって話せるから」
松浦の言葉に嬉しくなって、答えた。
「確かにな。強制飲み会もなくなったし」
「それ!……ってすみません」
「いや、いいんだよ。あんなもの要らないくらい、自然と誘われるようになったし」
「へえー!そうなんですか」
「うん。ちゃんとしてれば向こうから誘いに来てくれるだろ。あれはそもそも店長も気が進んでなかった事なんだ。そもそも友達と飲んだり気を許す奴と過ごしたほうが、仕事なんてうまくいくしな」
「やっぱり別人みたい」
「優しくなったとか?」
「はい。前は近づくこともできなかったし、滅茶苦茶なこと言うし、業務のちょっとした相談なんてもってのほかだったしそれに……」
と、思いのほかさんざんな人物評を語られて笑ってしまう。
「ごめんな」
松浦は否定せずに座ったまま軽く会釈した。
「人生に絶望してたからな」
松浦は口ごもり、唇を一つに結んで引っ張った。
「ああ、大丈夫それは離婚じゃない。それもそうだけど、それだけじゃない。でも避け得ない辛いことだった。俺にとっては」
松浦がこちらをのぞき込む。
「何かあったんですか?」
「いいや、何でもないさ。今やもうな。そう思うことにしてる」
服巻は一呼吸を置くと、続けた。
「この現実から逃げることはできない」
その言葉を聞いた松浦の瞳が、物言わぬ悲しさを共有したことを分かった。
「どうやったら楽しんで生きれるんだろうって考えたほうが楽だ」
「すごい」
「そんなにすごいか?」
「すごいと思います。私、そうはできません」
「君も何かあった?」
うつむく松浦に、服巻は言葉をためらった。
多分フラれたとか、そういう事なのかもしれない。
「まあ考えるよ。例えば自分がもし一流の野球選手だったらとか」
「高峰修みたいな?」
その発言に後悔して、服巻は天井を見て言った。
「ああ、あんまり野球に詳しくなくてな。そんな奴いるのか?」
「テレビとか見ないんですか?」
「ああ。最近はめっきり見ないよ」
「そうなんですねぇ。私、心配です。ファンだったんですけど」
「何かあったのか?」
「最近、行動が変だとか週刊誌でやってて。そうそう、広橋澪と付き合ってたとか報道で出てたんですけど、それが破局したってところまで進んで、それでおかしくなったかもって、何だか全部一つの線になってきてるらしいんですよ?」
「また、週刊誌とかネットニュースとか、あんまりよくないぞ。って説教臭いか、そんなのは。俺もおじさんだし、『今の言葉おじさん臭くないかな』とかつい反省して……」
という視線の先に、誰かが横着をして持ってきた週刊誌の表紙が目に飛び込んできた。
松浦が言っていたことと、ほぼ同じ内容の記事がトップだった。
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