コンディション

 名倉の隣を走っていた彼と同い年の背番号五は、二人一組のストレッチになると偶然居合わせたことに不満げな表情をし、周囲が冗談を言ったり和気あいあいとしたムードに包まれる中、黙々と支持される動作を行っていくのみだった。

 クールダウンが終わると、木ノ内が煙草を金属の格子に擦り付けて灰を落とす。

 今日の練習日程はこれで終わりだ。木ノ内と服巻がにわかにベンチの前に出ると、選手たちが二人の周りに輪を作る。


「お疲れさまでした」 

 木ノ内とお辞儀をすると、示し合わせて選手達も動きを合わせる。


「今日みたいな晴天に最高のコンディションを出すのは当然だが、荒天の時こそ一番動けるようになるには、今日のような練習姿勢が不可欠だ。一か月後はヤリミズ選抜試合。皆知っての通り、優秀な成績を認められれば、他社との公式試合をしている社内選抜の社会人野球チームに拾い上げられる。店にとっても誇らしいことだ。毎日の契約も、野球も頑張って当然、それで一人前だ。頑張れよ。私からは以上」


 コーチは?と木ノ内が顎と目で示してくる。

 服巻は流れているひものような雲を見て、目線を落とした。

「監督が言ったことは、多分人生でも同じだ。以上」

 木ノ内は小刻みに首を振って、おかしいぞとでもこぼしそうだった。

「それだけか?」

「ああ、練習中に言いたいことは言った。もう長話はいいだろう。早く帰ろう」

「……分かった。解散!」

 間の抜けた感じに何ともジワリとした笑い。起きかねないところで我慢する独特の空気にも、服巻の前では選手は笑顔を見せない。 

 そして名倉も終始固まった表情のまま、ベンチの端にある、誰にも相手にされない席においてあった野球バッグに歩いていく。

 彼がふと、気になった。


「名倉」

 口をついて名前が出て、名倉が振り向く。自分でも思ってもないことだった。緊張の糸が巡り、皆自分を向く。

「ちょっと残ってくれるか」

 と服巻風の声を出すと、にこりと笑って見せた。それは逆効果のようだ。選手皆分かったような表情をして一人また一人と去っていった。グラウンドの使用報告は、今日も服巻がやることになっている。名倉はうつむいてその場に立ったままだ。

 服巻がため息をついている間に早々と二人だけが残された。服巻はグラウンドの外に野ざらしであった自販機からセラナインCを買う。エナジードリンクが出る前から使われていた炭酸ドリンクだ。

「注意力は上がったな」

 名倉は両手でドリンクを受け取ると、ありがとうございます、と。頭を下げる。

「謝るよ。今まで指導の範囲を超えてた。こんなことで気が休まるかはわからないが」

 名倉がその瞬間、何とも言えない恨みがましい表情になって固まったのを見た。ドリンクの蓋は開かない。

「当然だ」

 服巻もそう言ったきり黙った。春だ。活発な鳥のざわめきが耳にささやいてくる。

「ムカつきました。今もです」

「ああ、そうだろう」

「職場でもここでも、つらいです」

「悪かった」

「居場所がありません。一時期、死ぬこともよぎりました」

「すまなかった」

 そう言ったきり、時間だけが流れた。

 名倉にして見れば返答に困るだろうし、訴えますとか言われることもあるだろう。少なくとも服巻の中の高峰は、この事件の傍観者だ。

 それは常に彼の喉に引っかかって取れない魚の骨のようなものだ。

「一時期から僕をからかわなくなったのはなぜですか?」

 そして名倉の言葉に、喉が引っ込んだ。それは入れ替わったからだとは言えない。

「それに、清宮さんからかばって下さったし、アドバイスも」

 そうだな、と一言置いて服巻は言った。

「空しくなったからかな。離婚したことも昇進がないことも。まあ俺の生活上の都合だよ」 

 服巻の中の高峰は、そう言って笑い、納得もした。人生最悪の出来事に慣れるうち、おののくこともなくなった。半分自分で半分自分でないこの状態のせいだとは思わない。負けても人生は続き日が昇る以上生きるしかない。都合よくこと切れる展開が用意された物語のキャラクターにはなれない。


「もしよければ、一つ聞いていいか?」

 名倉はいきなりの質問に、思わず視線を上げ、高峰と目を合わせた。

彼はいまだ警戒心の残ったような声の張りで、はいと言った。

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