Ⅵ 晴天時屋内気温:二十度
私という存在
「埼玉を元気に」
と高峰が服巻の声で言うと、相変わらずバラバラだと思っていた十人余りの声合わせに、統一感が出たような気がする。川口店は激震した。あの服巻が欠勤しなくなった。
かと言って、現実は何も変わりはしない日常だ。
今日の外回りは名倉と清宮ともう一人の計三人、フロアには店長と折田がいて、残りは整備スタッフと事務員と続く。
フロアを透通す巨大なガラスの向こうに広がる通りに散らかったごみは、自ら清掃した。今日は面倒な嘔吐物があったが、ペットボトルを使って水で流した。
仕事が始まってしばらくしてからも、暇を作ることなくフロア奥オフィスにある端末で各営業の情報を見たりしながら売れ筋を分析したり、策を練るのは楽しかった。
野球人であった時も、自分は多分に分析家としての面が強かったように思う。
あの日からほったらかしていたスケジュール帳も、再び書き込む数が増えた。セールストークやお客さんの様子や、家族構成、そして各人に有効と思われる営業トークの幅も増えていき、皆にアドバイスできることも増えた。
そうするうち、お客さんが現れて折田が対応し始めると、自分も新しいお客さんが来たらフロアで対応するつもりでオフィスから外を見ていた。
するとドアの向こうでこちらを伺う女性が見当たったため、立ち上がってそこへと歩き、ドアから入ったお客さんにお辞儀した。
「ようこそお越し下さいました。ヤリミズディーラー営業の服巻武です」
対面した婦人は軽くお辞儀してこう言った。
「買い替えで来たんですけど、あの、担当の名倉さんいらっしゃいますか?」
「申し訳ありません。ただいま名倉は外出しております。私でよろしければ対応を致しますが、いかがですか」
婦人はにこやかにお辞儀をして、真四角だが角が丸みを帯びた軽の展示車の前に立った。この場合は時間をかけて話をしたい。店長がまだ控えているから、それも可能だ。
「名倉さんにはお世話になっているんです」
「左様ですか」
「ええ、一回事故を起こしてミラーがだめになっちゃったんですけどね。あっちがぶつかってきたのに払わないってもめてしまって。保険屋さんも何とかできないとかで。その時に名倉さんが動いてくださったみたいで。最近はバラバラじゃなくて保険も全部でしょ?」
「ええ、トータルでご案内させていただく場合が殆どですね」
「だから僕が責任持ちますって名倉さんがね。不器用だけどとにかく一生懸命にやってくだすって。助かったからまた新しい車見てもらおうかと思って。軽自動車でゆったり乗れるものがあればいいかなって」
「それは本人も喜びます。お伝えさせていただきます」
自然とお客さんに対して笑顔ができた自分を感じた。こういう場合、多数の案件を引きずっていると、決まったかの如く保険の支払うお金が高くなっている場合もあるようだ。この点名倉は一つ一つの対応が丁寧で、そういう不誠実なところがない。
もう少し落ち着いてやれればな、とは思うが。
女性は車幅問題で、最近自分の反応が鈍くなったことを痛感しているが、今の車では接近するとセンサーが鳴るので快適だということと、アップグレードされた全周モニター付きのために駐車場に止めるのも楽だと答えた。
「お客様のご要望ですと、こちらのアダプトならスライドドアで設計もゆったりとされており、さらに快適にお乗りになれますよ」
女性はオレンジ色のアダプトを見ながらうん、うんと頷いた。
「半導体の影響で何か月もかかるから早めに言わないとすぐは来ないので、お早目のご契約をお勧めしております」
「あら、そうなんですね」
と、少し驚きながら婦人は答えた。
「主人が買うなら早くしろって言ってたから、今日中にお見積りとかいただけるかしら」
「かしこまりました。そろそろ名倉が戻ってくる時間かと思いますので、お引継ぎを致しますね」
ここで少しお待ちいただけますかと断りを入れて、少しだけオフィスに戻ると、女性事務スタッフの松浦がすかさずこう言った。
「名倉さん、帰ってきましたよ!」
「すぐ呼んでくれるか?」
「分かりました」
松浦はひきつってはいたものの、以前から考えれば、大分カームダウンした表情で自分に答えてくれた。名倉に引き継ぐと彼は驚きながらもすぐに婦人のもとに走ろうとして、そして服巻は止めた。
「余裕持っていけ」
名倉は少し頷くと、深呼吸してフロアへと歩いて行った。
※
何故かは分からないが最近、高峰の感情記憶がより詳細に戻るようになってきた。
ひとしきりグラウンドに出て思い当たるところを指導していくと、在りし日の少年野球にコーチとして指導した、そんなおぼろげな記憶を思い出す。ここはフェンスとちょっとした屋根と、整地道具を入れたコンテナしかない質素な野球場だ。記憶にあるアベンジスの豪華なグラウンドではないが、このチームにはこれでちょうどいい。
「だからこうして身体の一つ一つが連動して動く」
ボールを掴んで何気なくその手を振ると、グラウンドの座席と空を隔てる境界に視線が落ちる。指導を聞く背番号五は、小刻みに相槌をしてこちらを見ていた。
「だからこう、ボールに目線を奪われるより持った瞬間にちらっと周囲を見る癖をつけろ。むしろそうした方がボールはこぼれない」
らしい。と、心の中で付け加えた。スケジュール帳に書き足した、野球教本に書いてあったことを言うだけだ。五番は頷き、よし行けと言うと持ち場に戻っていく。
実力はバラバラだ。
高校生の平均ほどの実力しかない者もいれば、社会人野球で通用する者もいる。しかし高峰として指導したエピソードは思い出しても、高峰がどう指導したかは相変わらず戻ってこない。そのために、一から野球を勉強するほかはない。どうにも知識とか固有名詞になると思い出せないようだ。持ってきたのは本当に心だけなんだろう。
だからというべきか、寝がけに見る悪夢は、必ずあの時を甘美に感じる自分が見せているものだ。奥底には納得のいかない自分が眠っていることもよくわかっている。
時々それが胸やけを起こさせ、頭をもたげる。運悪く夢枕で見てしまうと、半日とらわれて身動きもできないほどへこまされるから、最近はよく外に出て、朝の光を浴びるようにしている。そうすると不思議と、意識がある間はその脳裏によぎる思い出を、穏やかに受け止める自分がいることにも気づける。
柄にもなく哲学の本を読むことも多くなった。
読書の苦労より、知ることの興味のほうが勝って、一気に読みふけることも多い。
人間はどこからきてどこへ行くのか。
私という存在は、一体なにか。
昼が近づく。今はベンチに引っ込み、最後のフライ捕球練習を眺めていた。
「……で、また辞めたのか?」
「ああ、もう医者から言われててな。今度は入院だ」
「藪医者の言う事なんて聞くなよ。煙草ぐらい吸え」
赤く光った煙草の頭がもみ消されて煙が漂う。
木ノ内はふーっと煙を吐き、春風がそれをさらう。
「お前だって俺が店から消えたらそれはそれで面倒だろ」
「まあ、それはそうだ。だが自制するお前なんて気味が悪い。どうせまた酒も辞めたとかいうんだろ」
「辞めたよ」
「いつまで続くかな」
「さあ、俺にも分からん」
するといきなり木ノ内が声を張った。
「名倉ァ!ビシッとしろよ手前ぇ!」
「ハァい!」
晴天の野球グラウンドで、相変わらず泥だらけのユニフォームで走る名倉の返事は、周囲の声より一オクターブ高い。だが、ボールを見事に捕って戻ってきた。
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