高峰修という男
相変わらずディレイのかかる体を起こすと、際限のない文句が口から出てきた。
誰だ、何の用だ、こんな時間にふざけるな。
そして服巻は、インターホンカメラに映し出された男の姿を見るなり激高して会話スイッチを押した。
「折田ァ!こんな時間になんだ!」
「開けてくれませんか」
折田は、随分すわっているように見えた。何より肝が。明け方の暗闇の中でも、一瞬でそれがわかってしまうのが今は嫌だった。
「うるせえ」
そう言って通話ボタンを切るが、また鳴った。
何回も鳴った。
「うるせえ!これ以上やると警察呼ぶぞ」
「僕はここから動きません。そう決めたんです」
「てめえの都合なんざ知るかよ!」
「じゃあそう言っててください。僕は約束したんです。服巻さんなんかと約束してません、僕が約束したのは……」
ぶつりと切って、静寂の部屋に残されたソファに座り込んだ。
自分の発した熱をまだ確かに、ソファは残していた。追い詰められていた。
もう、立つ瀬がなかった。
またインターホンが鳴った。
「いい加減にしてくれ」
「加減なんて知りませんよ修さん」
「俺は服巻武だ」
「違います」
「違わない。あなたの役割から逃げてはいけません」
「役割なんてもうない。もう乗っ取られた。死んだんだ」
いっそ辞めてしまいたい、全てを投げてしまいたい。そんな言葉が喉の奥から出かかって、邪悪な人格にでもなって独り言ちたい気分になって、それで漏らすように笑いながら、早朝から寒いのにパワハラ上司のために時間を割いたこの男に言ってやろうと思った。
「ああ、残念だったな。テレビ見たか?スマホでもいい。澪ももう、高峰とは別れちまったよ。これでお前の願いも終わりだ。あいつとんでもないことしたんだろうな。まあいずれにせよもう俺には関係のない話だ」
「澪さんがそんな筋書き通りに考えるはずがない」
「お前に何がわかる?」
「分かります。澪さんは僕の推しです。インタビューも映画もドラマも見てきました。全部嘘だと思いますか?彼女の仕事を否定するんですか?」
「黙ってくれ。静かにしてくれ。限界だ」
「ヒーローがー負ける姿なんて、誰が見たいと思うんですか」
「その名で呼ぶな」
「いいえ。アベンジス無敵のピッチャー、高峰修はその体を乗っ取られ、それでも諦めなかった。それがあなたの役割です。見たでしょう、空港で、キャンプで、あの声はあなたの努力に払われたものです」
「それを証明するものなんてもうない」
「そうでしょうか。澪さんを動かしたのは、あなたの心だったはずです。収入ですか?澪さんにもあります。顔ですか?俳優と仕事してます。澪さんと一緒にいられるのはあなたです。まだわからないんですか?修さん、魂在りますか?心でもない、あなたの魂、そこにありますか?あるのに否定してるんですか?いつまでそれをやるんですか?」
服巻はふーっと長くため息をついたまま、肘を壁につけて項垂れたまま、次に激高して口を走らせた。
「いいか折田。高峰修の真実を教えてやる。あいつは誰にも心を開かなかった。周りも全員見下して自分の力だけを信じて生きてきた。俺の前に敗れた奴にも、ライバルにも、誰にも敬意なんて持たなかった。そうやって蹴落として見下して手に入れたのが、あのキャンプで売ってたうちわやバットや、ペンのすべてだ。パッケージなんだよ!嘘だ!本当は寂しがり屋で、自分が分からなくて、ボールを追いかけて全部見ないことにしてきた情けないいじめられっ子だ!お前に解るか?」
折田は喉から一瞬言葉を発そうとしたが、そこで止まった。彼は俯き、それ以上何も言わなくなり、それで初めて彼の気持ちがわかった気がした。
「……分かった。折田。もうわかったよ。君が励ましてくれることも、その気持ちもありがたいよ。嬉しいよ。でももう亡くなっちまったんだ。俺が俺である理由なんてもう、どこにもありはしないんだ」
面突き合わせることのない電話越しのアバターは、曇っていた。
しかしお互いの声ははっきりと聞こえていた。
「……修さん。僕、初めて服巻さんの中身が修さんだって解ったとき、思ったんですよ。何でこの人はこんなに冷静にいられるんだろう。僕だったら耐えられない。パニックを起こして、仕事になんていけないまま、あの時点ですべて投げ出してしまったろうって。それが普通ですよ」
折田は息をひそめ、そして自分の中から出てくる言葉を待ってから、落ち着いた声で再び語りだした。通話を終えるボタンはどうしても押せなかった。押せば楽だった。だが高峰修は、拒否した。
「だから、それは高峰選手だからだって思ったんです……もう、言おう。言いますよ。僕は野球が嫌いです。小さい頃父が勝手にチャンネル変えるのも嫌だったし、高校の時に野球部が甲子園に行って、無理やりメガホン渡されて応援させられるのも嫌だった。だけどあなたは、あのバカでかいスタジアムの真ん中で、とんでもないプレッシャーの中で結果を出してきた人だからできたんだって、思ったんですよ。野球なんて興味ありません。でも調べたんです。あなたのことを。あなたがあなたになる前のあなたを。澪さんがそれを知らない訳がないでしょう」
「やめてくれ」
「高峰さん、修さん、出てきてください。そこから出てください」
折田の声が震えていたのは、春を待てない冬の寒さのせいだけではなかったことを、高峰がわからない訳はなかった。
「出勤してください。どんな立場になったとしても、あなたにしかできない仕事をしてください。それがあなたである事を何よりも証明するはずです。生きざまが人を作るって、そう思います」
それは澪のセリフだった。
確かあの時、プロポーズしたとき。自分が彼女の言葉に付け足したセリフを思い出した。
どんなことがあっても、俺は俺だ。君のそばにいたい。
――――インターホンを切ってから二分後。
服巻武の身体をまとった高峰は、否、服巻の洞窟から現れた高峰は、直接寒空の下待つ、折田の前に立った。
みっともない酒臭い体を晒しながら、折田を通して部屋の中に入ったとき、折田はハンガーにかけてあったカーディガンを持ち、そっと服巻の方から背中にかけてやった。
そして二、三話した。
かなりくだらない話をした。
やっと現れた、そういう飾らない夜明けとともに高峰は逃げられもしない今日を迎えた。
最初に始めた時のように、折田が運転すると言ってくれて、それに従った。
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