本当の敗北
日本酒のアルコール度数は十五パーセント。一日の推奨摂取量は一合にすぎない。
しかし服巻はまた一瓶を空にして倒し、ソファにもたれて呻いていた。
そして酩酊して揺れる視界に抗うように腕を立てると老人のように立ち上がり、酒をしまっていたはずの棚を見た。
もう三回も見ている。
「くそったれ」
そう言って倒れ掛かるようにソファに身を投げて天井を見た。
苦難を背負ったとしても、面突き合わせて生きていく以外にない。
すっかり汚れたベッドにだらしなく垂れ下がった臭い下着をつまみ、洗濯機へと投げてソファに歩いた。
高峰は、チームメイトにはほとんど本当の気持ちを伝えては来なかった。
それは彼の誇りだった。下手な付き合いや馴れ合いさえうまく利用しなければ非凡にはなれないと思っていた。死に物狂いでしか掴めない栄光の椅子は、一つしかないのだからと信じていた。しかし、その考えこそが体中を緊張させ、広背筋を破壊した原因となったドグマであった。それに気づいたのも、ひとえに彼を支え続けた人々のおかげだ。それで彼は変わった。
その悪夢の年の後、オフシーズンにて怪我を治した。
快調に動く身体を取り戻した去年、高峰はここで活躍できなければ引退を覚悟していた。中学から信じてくれた親のためにも、弱小チームから共に勝ち上がって最後は涙を飲んだ高校時代の仲間達の為にも、そして大学時代の自分にも、すべてに別れを告げようと思った。いじめられた少年時代の記憶。貧乏だった家庭の記憶。抱えた怪我、人生を捧げた野球。苦しいことを制するために強くなろうとした。苦しみを跳ねのけることが、人生成功の秘訣だと信じた。
その年、早期から4勝、防御率0.51を記録した。この勝利で、何かがつかめた気がして、そこからは止まらなくなった。以後、月間MVPを受賞するなど、安定したピッチングを続けた。最終的にはチーム唯一の規定投手となり、リーグ二位の防御率2.46に、自己最多の十五勝を挙げて自身初の最多勝利のタイトルを獲得したころには、マスコミは見事に返り咲いたと自分をもてはやした。だが高峰には、それを味わう余裕はなかった。
初年度で味わった痛手は、彼が自覚している以上の学びを与えていたし、恐れていた怪我の再発という緊張もあった。振り返ってみれば、そうした重圧こそが大切だった。
だが。
もはやそれは、彼の人生ではないのだ。
この体になって初めて泥酔したとき、何故か野球選手だった時のことはっきりと思い出す。酒があれば、夢の中にいられた。煙草をふかせば、胸の痛みは癒された。
医者から言われた二リットルのミネラルウォーターが日本酒一瓶にそっくり入れ替わることに、もはや何の抵抗もなかった。
「俺はこんなもんじゃない」
逆境に何度も立ち向かい、幾度も逆転させてきた。ライバルを打ちのめし、戦力外通告に怯えながら、何人もの人間を蹴落として手に入れた地位だった。
だがもはやそれは、彼の人生ではない。それを知りながらも求めてしまう自分が嫌で、そしてまた酒に手を伸ばす。
「こんなもんじゃ……」
そう呟くと、また一杯ほしくなる。それを繰り返し、夜通し電気をつけたままいつの間にか眠る、そんな生活が一月と半になる。当然ながら、病院からの連絡も拒否していた。
これが自分の人生なのかすら、決定なのかすら、運命なのかすら、解らない。
ふやけた体のまま、横たえた体のまま、リモコンを持ってテレビの電源をONにすると、民法のワイドショーが始まる。
朝の六時だった。
昨日そのまま寝たと勘づき、時間の観念すら危うくなっている自分にそこで気づいた。二日酔いの鈍痛が、いまだに頭の中で騒がしい。
『では今朝のスポーツ新聞見出しチェックです』
輪郭の際立った声で男性アナウンサーがそう言い、先にオレンジ色のポイントのついた教示棒で次々と記事を差していく。
『民民党、次回選挙で過半数割れか、支持率急落、長期政権維持絶望的』
沈痛な面持ちで話す政治デスクに向かって吠えた。
「馬鹿な政治家ども、全員辞めろ」
分りもしないのに文句を垂れて、気持ちが少し晴れる。
男性アナウンサーは淡々と記事を読み上げコメンテーターに話題を振り、そのやり取りが三記事ほど続いた。SNS有名人のどうでもいいお騒がせゴシップ、海外ヒーロー映画俳優の逮捕などと続き、さっきと同じように益体のない文句を垂れた。
『では次の見出し。スポーツ四政新聞、広橋澪、芸能界引退撤回か。これは確かならば大きなニュースになりえることだそうで、芸能デスクの田所さんにその理由を伺いましょう』
『はい。田所です。去年十二月にその去就が噂されていた広橋さん、当初は来年春公開の『一番近くで抱きしめて』にて主演を演じ引退となるかと思われていましたが、ここで新しい映像作品の契約の話が浮上したということでですね。原因としては、引退のきっかけとなったはずの婚約が破談になったことが噂されています』
『破談?という事はどなたかとお付き合いがあったんでしょうか』
『そうなんです。このフリップをご覧ください。週刊誌によれば有力候補は四人とのことです。野球選手、有名芸能人、IT企業社長の一般男性、外資系大企業の役員の一般男性』
コメンテーターの女性が声を発し、目を丸くした画が抜かれる。
『すごいメンツ』
そして反射的にテレビの電源は切れた。いや、リモコンを操作して切ってしまった。
何も考えたくなかった。
あと三時間で仕事が始まる。もちろん、自分の仕事ではない。自分がやるべき仕事だとも思わない。当然の話だ。こんな理不尽なことがあってたまるかと思うほど気が遠くなる。血眼になってあの男の言うネットの情報を探したが、すべては徒労に終わった。
それ以上できることなど何一つなかった。
インターホンが鳴った。
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