一体どんな奴なのか

 体を起こして時間を見ると、早朝7時ちょうどだった。

 身に覚えのない家族の夢。服巻の脳みそにある記憶が見せたものだとはすぐに理解した。その喜びに満ちた記憶の中心には、珠莉という名の小さい女の子がいた。

 どうやら服巻が、この子に愛情を注いでいたのは真実なのであろう。しかし妻との記憶が失望にまみれていたこともまた紛れもない事実であった。服巻の皮を被った高峰は、以前にも増して服巻本人に会いたくなっていた。

 どんな気持ちでこう生きてきたのかを知りたくなったのだ。


 

「まさか本当に手に入れるとは……」

 アベンジスキャンプ一日前の今日。そして夢から六時間後、ハンバーガーショップで待ち合わせた折田の持ってきたものに驚き、声を出した。

 机には今季プラチナチケットと呼ばれた宮崎キャンプの観覧席券が置かれている。折田は悔しがったような顔をこちらに向けながら、謝ってきた。


「すみません。一枚しか手に入れられなくて……。本当に大変な戦いで」

「いや、十分だよ。むしろあの状況からよく手に入れたな」

「それが、僕と同じ澪さん推しのファンで、今春さんって人が野球も大好きらしくて、何気なく聞いてたらゲットしてて、頼み込んだら割とあっさり譲ってもらえました」

「マジか」

「ええ。まああの人、趣味にかけるお金と時間が僕らの比じゃないので、その気になれば何でも揃えられるんでしょう」

「待て、俺の話してないよな?」

「する訳ないじゃないですか。ハハ。澪さんの婚約相手がいるだなんて、僕殺されちゃう」

「ハァ?」

「何も言ってませんから、気にしないでください」

「ならいいが、別にお前もついてこなくたって。むしろお前の手を煩わせなくて済むのに。というか二月は繁忙期なんだからしっかり休めよ」

「いやいや。もしかして、一人で行こうとしてないですよね、修さん」

「そのつもりだけど」

「いや!僕はついていきます。ばっちり休みを取ってるんで。出勤表見ませんでした?」

「見たけど……何で?みんな忙しいんだ。お前顰蹙買うぞ?」

「一人で不安じゃないんですか?」

「いや、むしろ乗り込んで確かめたいから焦ってるくらいだ。お前、本当は俺自体には興味がないんだろうし。あと言っとくが、広橋澪には会えないからな」

 折田はぐうの音も出ないような表情であったが、少し間が空くと小声で言う。

「かっ、身体が入れ替わった人を見れる機会なんてなかなかないじゃないですか」

「俺は見世物じゃない、それにもし服巻本人と入れ替わったらその時点で元の鬼上司と二人旅だけど、いいのか?」

「う……その時は逃げます。仲間の家なんて僕のフォロワーを頼れば宮崎にもありますから。だってそうしないと全国ツアーなんて回れないでしょ」

「便利なもんだな……」

「ちなみに服巻さんはエッチなことをするためにSNSを使っていたと社内ではもっぱらのウワサでした」

「やめろ」

「Tの二期なんて黄金時代ですからね。澪さん達センターがどれだけ苦労して一公演ずつ増やしていったか。ドキュメンタリー映画も観ましたけど、やっぱりあの時ですよ。福岡のドームにまで遠征して、『ようやく九州!』って大観衆の前で澪さんが叫んだときのあの表情、ほんとに見れてよかったし、僕はリアルタイムなんです。あの、リアルタイムってどういうことかっていうと、そんな映画になるみたいな伝説の瞬間に立ち会えた選ばれしものたちの一人ってことで……」

「聞いてない。うるさい」

 とは言え、自分の彼女がここまで熱く語られるのは、こそばゆい気もしないではない。自分も今もどこかで、こんな風に誰かの野球談議の中に登場しているというのは実はあまり想像することが難しくて、だからこそ選手としてファンの目を気にせずにプレーできるようになったのかな、とも思う。


 旅行かばんは一つ、二泊二日で観覧客が利用するホテルも確保した。一般人からプロ野球選手の体に一夜にして変わってしまったとしたら、それは逆のパターンよりも難しいに違いないと信じていた。野球選手と営業では、使う脳みそも肉体も違いすぎることを身でもって知ったからだ……それは野球選手としての幾ばくかの自負が思わせる傲慢だとも解ってはいたが、事実、セルフコントロールすべきことの多さにかけては、スポーツ選手をおいて右に出るものはない。怠れば周囲には分るし、一瞬一瞬の判断が選手生命を奪う誤算の原因となる。集団行動も重要で、怠け者に居場所はない。生活の維持や食生活、睡眠など、考えるべきことの多さに、聞く限り鬼のようにしか見えないあの服巻も自分と同じような苦労を抱えているに違いないと思っていた。インタビューを見る限りにおいては、おそらく上手くやりおおせている。

 とにかく現在の高峰修が友好的な人間であることを願う。 困り果てて疲れてくれていれば、協力もできると考えていた。


 羽田から宮崎を目指す飛行機の中は、アベンジスのキャンプ観覧を希望するファンたちで埋め尽くされていた。タオル、シャツ、手荷物から飛び出しているメガホン、そして内輪には高峰修の顔があり、子供も大人も笑顔だった。

 こんなにも多くの人たちの視線を浴びていたんだな。素直にそう思う。


「どんな時代にも、ヒーローが必要ですから。もちろんヒロインもね。そういう仕事って、なんて羨ましいんだろうと思いますよ」

 と遠い目をしている折田に、服巻は言った。

「まあな。でも君の車の営業だっていいと思ってやってるんだろ」

「ええ、でもどうでしょうね。この会社も偶然だし、ずっとこの仕事をやるわけでもない。多分、転職の機会なんてたくさんあると思うんです」

 と言う、折田の表情は座っていた。野球の玉しか追いかけてこなかった高峰としての感情がいくらか動いた時、不意に声が聞こえた。


「……だから広背筋とか抱えてよく頑張ったと思うよ」

 一つ後ろの座席から声がする。関心を払わないようにしても聞こえるから仕方がない。

「ああ高峰?俺は来季までだと思うなあ」

「なんで?」

「だって年だろ?あの年で一五四投げるのは確かにすごいとは思うけど、若手だったらそこまで速いと言えるわけでもないだろう。少なくともメジャーにはいけないんじゃないかなあ、日本でコーチとか監督してたほうがいい気もするんだよな。だって華はあるだろ。そのまま偉くなれば失敗することもないのに」

 という声に、相手は明らかに釣られたような声で理解を示していた。

「あーわかる。確かに、二軍から這い上がっただけでもすごいとは思うけど……」


 折田は気まずい顔をして正面を向いた。飛行機の加速感が機内をにわかに騒がしだすと、後部座席の何気ない会話は聞こえなくなる。それからの会話をどう続けていいのかわからないのか、急に静かになった折田に、服巻の皮を被った高峰は言った。


「別に言わせておけ。プロになってからも気にしたことなんかない」

「強いですね」

「毎日のごとく優秀な奴がトップを飾るし、ダメな奴はこき下ろされる。毎日だ。そんなものに影響されて、プレーに支障が出るくらいならこの仕事は向いてない」

「確かに……」

「最初から俺が勝つことなんて決まってるんだ。そう思うと毎朝の新聞も楽しく読める。そんなもんだ」

「今回もそうなるといいですが」

 という折田の声に力強く答えようとした。

「疑ってるのか?大丈夫だ。高峰修の体を操縦できるのは俺しかいない」

「僕もそう信じてますよ。でも、本当に服巻さんがプロ野球選手の体を持ったと考えたら、そう一筋縄に明け渡してくれるでしょうか?」

「そこには確信がある。はっきり言ってな。こんなぼろぼろの体のやつに俺の肉体が乗りこなせるはずがない。絶対に投げ出したくなるはずだ」

 服巻の皮を被った高峰はただそう言った。それは半ば呪文のようにも響いたが、服巻として平然と努めて、さらにこう言った。

「あの体は俺の努力の結晶だ。俺の努力で手に入れたんだ。他のやつが中に入ったて、都合よく回りはしない」

 折田は何も否定することなく、しかし服巻を横目で見ることもなく、正面を向いて言う。

「きっと修さんならできますよ」

「褒めたってなにも出てこないぞ」

「澪さんが出てくるなんて誰も言ってないですよ」


 澪のことを下の名前で呼ばれるのには、まだ抵抗がある。

 服巻は話すのをそのくらいにして、アイマスクと耳栓を装着すると、到着するまで寝ることにした。ことが起こって二か月。長い時間だったがようやく手立てが見つかりそうな予感がする。

 雲よりも高く飛んだ飛行機の中で、澪と、慣れ親しんだ生活との再会を心待ちにする自分を内側に宿して、あくまでクールであることを自分に課さなければと思った。あのテレビのインタビューは、偽高峰としてはよくできているが、多分仕事の自分の時のように、言葉を引っ張るだけで精いっぱいだったに違いない。早く本人に会って、何もかも確かめたかった。

 この体になって乗り切ることができた、手掛かりをようやく掴めるという高揚感がすべてに勝っていた。

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