この人、混乱している
そして一週間後、また服巻は足を止めた。
視線の先はテレビの画面、よくある夕方のワイドショーだった。
『このように地元も大盛り上がり!そんな日本シリーズの勝利投手となった高峰修選手に、試合中の思いを聞いてみました!』
『自分だけにしか託されないことだと思ってたので、絶対に完封するぞという気持ちは誰にも負けませんでしたね』
かかりつけ医のいる診療所のテレビの中に、最新の高峰修がいた。
こんなインタビューは知らない。診察券と財布を持ったまま、周りにいる高齢者や親子連れのことも視界に入らず、服巻はそこに立ち止まったまま釘付けになっていた。
『……と、はにかんだ表情を見せる三十二歳の高峰選手。しかしここまでの道のりには、険しく大変なものがありました』
アベンジス投手、高峰修の学生時代の写真、そしてプロになってからの映像がモンタージュになって紹介され、若い男性のアナウンサーが熱を込めて読み上げる。
『二十三歳、捷米(しょうまい)大学野球部に所属しドラフトを受けた頃は、あまり注目された選手とは言えませんでした。当時彼はアベンジスに九巡目指名。契約金二千百万円、年俸八百万円で入団。プロ初の実戦登板のとき、二番手で一回を投げ無安打無失点に抑える快挙を果たすと彼はひたすらに投げ続けました。最速百五十九キロをマークする自己ベストを打ち立て、自リーグの最優秀新人に選出。球界を注目させ、SNSでもてはやされました。しかしその活躍も長くは続きませんでした。広背筋症です』
スポーツ専門医がテロップ付きで登場し、大写しになる。
『なかなか完治することのない、場合によって一生付き合っていくような病気ですね』
頭を抱える高峰投手のアップだ。
この写真の時は、確かその悩みで頭を抱えていたわけではないのだが。
『次の年、プロ入り初の開幕投手として登板したものの、五回に六失点を打たれ、負け投手となり、全く泥沼の三年を過ごしました。他の選手からも出遅れ、三試合連続失点、最近の二年は二軍落ちと一軍復帰を繰り返す不安定な成績、最終的に一軍に留まるもファンにも見放される状況の中で、ついに今シーズン、あの高峰のエースピッチングがまた帰ってきたのです。単独インタビューにて高峰選手はそのことについても語ってくれました』
画面の中の高峰修は、不敵に笑うと白い歯を見せていた。
『ああ、まったく焦りとかはありませんでしたね』
『本当に?』
『全然。余裕ですよ。これで折れていたら、プロとしての活躍はできないと思っていました。弱い高峰では意味がない』
高峰はそう笑顔で言った。
『やっぱりファンの声援にも応えたかったし、ビッグになりたい、メジャーに行きたいという気持ちがありましたから。そう、僕が二軍に落ちた時に、ちょうどファンの男の子からフェンス越しにがんばれって言ってくれて、それで覚悟が決まったというか、やってやろうと思いました』
そんなことあったっけ?高峰の脳みそを用いていない以上、何も思い出せない。暖房から絶え間なく吐き出されるゆるい暖気で、頭もゆるくなったままだ。
『と、シーズン中とは打って変わって気さくに話してくれた高峰選手、今後はどう考えているのでしょうか?』
『やはりもっともっと有名になって、自分がどこまでいけるかを試したいです。もちろん海外に進出したいですし、ファンの皆にはこれからを楽しみにしてもらいたいですね』
と、高峰が白い歯を見せたまま映像が止まり、フェードアウトし、スタジオの男性アナウンサーに戻ると、画面に映るスタジオの人々も、夢中になってみていた画面から意識を切り替え、コメントする立場になった。
『というわけで高峰選手、シーズン中とは打って変わって非常によどみなく話されていて、コミュニケーションにも勝利投手としての自信を感じました。別人のようでしたね。勝利の余裕でしょうか。でも本当に素晴らしい方で……』
言っている間にカメラが動き、コメンテーターが興奮して話す。
『ええ、終わったと思われたところからの再スタート、やはりお人柄もあったし、その努力と非凡さは誰にもまねできない天才だと思いますよねえ。特別な人だと思いますよ』
『今後の活躍に大期待ですね。それではお天気です。スタジオの外の白倉さーん』
呆然と立ち尽くし、状況が飲めなかった。
「服巻さん、服巻武さーん。健診結果です」
はっとして診察室横の受付を見ると、自分の名前を呼んでいたナースをふと見ると、少し不満げな目でこちらを見ていたことがわかる。
その声に引っ張られるように歩くと前方のドアが開き、服巻の背の三分の一にも満たない身長の女の子が出てきて、彼はまさに視界を覆い隠す反り立つ壁になってしまい、女の子に泣かれ、ドアから出てきたその子の母親に怪訝な目をされた。
「あ、もう一つ奥のドアです」
と言われ、方向転換し診察室の中に入る。すでに疲労困憊であった。
診察室の中は、ともすれば乱雑にもなる大量の書類を、沢山の棚で整理整頓し制御したような部屋で、綺麗なデスクにPC、壁にはレントゲンを移す白く明るい壁がある。
主治医はすでに、カルテも何もかも用意してそこに座って、目も据わっていた。
じっと見られると、なかなか威圧感もある。何せ相手をするのは服巻武だから、このくらいでいいのかもしれない。ゆっくりとパイプ椅子に腰かけた。
「……どうですか、痛みのほどは」
「痛いですね。相変わらず、痛風ってこんなものかと思い知らされてます」
「ああ」
医者は共感したような声を出し、そこからは安堵も伝わってきた。ついにあの服巻がここまで小さくなった。多分そこまでの肉体的なダメージで遂に折れたと考えているんだろう。服用した薬は全て、食事を吸収、排泄しやすくするとか、インスリンを出しやすくするとか。そんなものだ。いつ急に死んでもおかしくない身体で自暴自棄に生きている服巻のささやかな延命に使う薬だ。心には効かない。
「できるだけ自分では抑えて生きているつもりなんですが」
「引き続き二リットルの水、飲んでますよね?」
「はい。みずっぱらです」
「よかったです」
「ここまで不自由になるとは思っていなかったので」
「この症状お持ちの方は皆さんそうおっしゃいます」
「それに」
と言って服巻は会話を止めると、医者がこちらをのぞき込む、その次の言葉を待つように静かになった。
「身体自体が、心にフィットしていないように痛いというか」
「どういう事でしょうそれは」
自分の窮状を言いたくてしょうがない気持ちに苛まれた。
ぐっとこらえるより他にないと思ったものの、口は止まらなかった。
「それが、今からいう話は夢の話なんですが」
「ええ、なんでしょう」
「夢の中で、俺は高峰修だったんですが」
「はあ、高峰修。ああ、日本シリーズの?」
「そうです。で、高峰が、つまり俺が胴上げされて、落ちて、そうするとこの体になっていて、どうやったら元の体に戻れるかって戦ってる夢なんです。こういうことって相談されたことありますか?」
ああ、こんなこと言われてもな。我ながら思う。やはり主治医は頭を抱えて答えた。あなたが高峰修……高峰。はあ、と困ったように呻いてこう言った。
うちは精神科でも心療内科でもないので……と一言断りながら、
「その相談はないのですが、お悩みなんですね。貴方はどうされたいんでしょう」
「元の体を取り戻したいんです。絶対に」
そのゆるぎない声と表情に、主治医は圧倒されて服巻を見ていた。
「それができなければ、生きている意味がない」
「そんなにつらいのですか?」
「ええ。一刻も早く、何とかしたい。この体を」
寸刻、何もない時間が過ぎる。さすがに後の患者もつかえていることを察した主治医は、なるほど、と言いつつ、困りながらこう口にした。
「そんなにお辛いならですよ、無理をしていたとすればですよ。もう、あなたは高峰修にならなくてもいいのではないですか?」
「えっ」
「確かにいろんなことがありましたから苦しい状況ではあられるんでしょう。でもこの人生はあなただけのものだと、私は思います。それぞれの人生の課題を乗り越えることがその人生の意義だと思います。別の人間になりたいなどというのは、我々の生きている世界のルールに違反したことではないかとね」
「まあ、そうですね」
「あなたはあなたにしかできない使命を果たせばよいのです。その望まない体になってしまったことの意味を考えながら、正真正銘の服巻武さんとして」
「はあ、まあ、そうですね」
「ですから……尿酸値や高血糖に関しては今までの診察でお伝えした私の話を聞いてくださればなんとかなりますから。ああ、あと入院一歩手前なんですから、煙草を吸うのはいい加減辞めて、あなたはあなたの人生を一つずつやっていきましょうよ。服巻さん、大丈夫です。治しましょう」
と言って、医者は服巻の手をやさしく取った。
やっぱ無理か。そう思うと服巻は深くため息をつき、浅く頭を下げた。
「奥さんのことは大変でしたでしょうが、どうか気を確かに」
と、医者は気を遣った。
「ここまで穏やかなあなたは初めてですから、そのようになすってください」
顔をくしゃっとゆがめて怪訝な顔をすると、服巻は診察室を出る。
こんなところでもブチ切れてるのか、なんてやつだ。
待合室では、広橋澪の主演ホラー映画の予告がかかっていた。その不穏なBGMが、紳士服のCMにかき消されたのは次の瞬間だった。
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