馬鹿親父の欠片
「あいつまだやってますよ」
選手の一人が木ノ内に言うと、木ノ内は答えた。
「ああ、いいいい。引かせとけ。それぐらいしかすることないんだから」
選手はゲラゲラと自分が愉快な気分であると周囲に分からせるように笑うと、他の人間たちの輪に交じって運動場から消えていった。
「名倉ァ!さっさと直せ!もういい!」
木ノ内が手を輪にして口に当てて叫んだ。名倉は気づいたとたん、ネズミのようにこちらに慌てた様子で走ってくる。
「トンボ引いてもあれじゃ意味ねえなあ。社会人三年のくせにどこまで馬鹿なんだか」
説教する木ノ内に、どんよりとした目で、周囲との交流を暗に拒否するかのように、名倉もまた木ノ内が視線を外していれば睨んでいたし、周りと目を合わせなかった。
決してそのつもりはないのだろうが、無意識でそうやっているんだろう。
その気持ちは、高峰にはよくわかってしまう。
服巻の脳みそにその情報はないが、解るのだ。
自分が確かに、こんな思いをしたことがあると。
「運動場の使用手続き、終わらせないといけないだろ」
手早く荷物の軽いバッグを肩にかけた木ノ内の背中に言った。
「ああ。事務室に行って報告してハンコ押さなきゃいけないが」
「今日は俺が行くよ。先に帰ってくれていい」
「いいのか?」
「ああ。ちょっと名倉に言いたいことがあるからな」
「お。久々に教育的指導か?」
「まあそんなもんだ」
木ノ内は言葉もなく鼻で笑った。
「やりすぎるなよ。今どきは撮られたり聞かれたりするからな」
服巻の皮を被った高峰にそう言うと、木ノ内は早々に背中を見せて歩いていった。
お互い俗物だと思いながら、本性を隠して友達面をするのがビジネスだというのなら、この場の全員が立派な大人だ。
間借りした高校のグラウンドの隅で、腕を組んでいる服巻の前に、先生に怒られることを悟った生徒のような顔の名倉が立っている。
「動きが悪いな」
「……すいません」
特に感情を乗せたわけではないが、服巻の声は常に怒気をはらんだように低い。それを釈明するのも服巻らしくなかった。
「ボールを持って構えてみろ」
言われるがまま、名倉がボールを掴む。
「お前、いくつだ?」
「に、二十五です」
この年齢で、一般人で、一体どこまで理解できるかなど、分かる訳がない。
「野球経験は」
「中学からやってます」
「成績は?」
「ベンチです」
「一試合でもマウンドに立ったことは?」
「ないです」
その表情は、上司に追及されるダメな社員以上にいたたまれないものがあって、さすがにそれ以上は聞けなかった。
「壁に投げてみろ」
名倉の投球フォームと球の捕り方を観察しながら、思いを巡らせた。
何の面白みもない投球はしていないように思う。さんざん名倉の情けない姿を見てきた今の木ノ内に、名倉の真価を見る目がないこともよく分かった。
「投げる時と捕る時の準備動作が遅いから対応できない」
と言いながらボールを受け取って投げようとする。が、今は服巻の体だ。軽快に動かなかった。だから理想通りの動作とならず頭を抱えた。自分がどうやって動いていたかも分からなくなってくる。この体が自分ではない以上、仕方がない。
「はあ、俺もトシか」
と言って名倉に笑うと、今まで見たこともない上司のしぐさを見たのか、名倉はいつものように目を丸くして反応した。
「あ、いいえ、そんなことは」
まあいいやと口にした。仕方がないから思うがままに、高峰ならこう考えるだろうということを話そうとした。
「ボールが自分のところに飛んできたと思った時にはもう遅いんだ。だからすべての動きを最小限にして、どんなときにも対応できるようにする。なぜなら、何かの動作をするとき、周りが見えなくなることとセットになるからだ」
と言って、間をおいて目線を外して空を見た。高峰のつもりで言ってみたものの突然、自分が何を言いたいのかが分からなくなってきた。まあ、いい。
「かまわん。だから……それより前に周囲に目を向けておけばいいんだ。そう。ほかの人間がどう動いているか。シュミレーションして練習の時も気を配っておく。あいつはこういう時はこうするな、あいつはどんな動きをするかなとか、そうやって観察を怠らないんだ。信じろとか言わん。夢中になったら動揺し失敗する。弱音も履かなきゃパンクする。しかし決め時は来る。見抜いて、判断し投げる。それだけでいい……」
と言いかけて、服巻武にしては、思わずしゃべりすぎてしまった自分に気づく。
「多分な……」
しかし、名倉は真ん丸な目をさらに開き、こう答えた。
「あ、ありがとうございます」
服巻は返事を聞くと決まりが悪くなって口ごもった。
よし。解散、そう言って話を終わらせる。
名倉は一瞬何か言いたげな顔をしたが、足元にあった自分の荷物を持つと、かぶりを振って元気よく走っていった。
これでよかったんだと、この体になって初めて思いながら事務室に向かって歩き、事務の女性に野球が終わったことを報告して、使用に印鑑を押して学校を出た。
服巻を演じて、日常を乗り越えたという徒労感より、今日この時に限っては、あの名倉とのやり取りのほうがよっぽど満足できた。不思議な気分で、足取りも軽く、ついさっきいた運動場の柵を挟んだ隣の道を歩いて駐車場まで進んでいく。
その時までは、何気なく行き来している通行人と思っていた。借りたグラウンドがある高校にいた紺色の制服と全く違う灰色のセーラー服のことだ。
その向かい合わせに歩いてくる女子高生が、こちらと目線を合わせた途端、その瞬間的な瞳の鋭さと怯えを判いある単語が頭の中に浮かんで、呆気にとられた。
しかしすぐに女子高生は、服巻との視線をそらすと、通り過ぎていった。
「珠莉」
確かに自分はそう口にしていた。このフラッシュバックは服巻のものだ。
珠莉はその声に止められたのか、止まってくれたのか、とにかくそこに立った。
「もうこの街には来たくないって」
「誰が?」
「母さんが」
「それを伝えに来たのか?」
「聞かないで自分で考えたら?」
「ああ。そうだな。そうすべきだよな」
「何?そうすべきって今さら」
おれはただ。
「君とお母さんの気持ちを知りたいんだ」
「君って何?でもそうよね、もう父親じゃないもん。せいぜい想像してれば?」
ちょっと待ってくれ。
「想像してるんだ。俺なりに。そうさ馬鹿だってわかった。服巻武がどれだけ馬鹿なやつか……そんなことをずっと思ってた」
それは口をついて出た言葉だった。
「……すごく愚かだった」
動揺してそんな言葉を繰り返すことしかできない。
だが、もう話す気はないと言うかのように背を向けた珠莉は、服巻を視界の外における方を向き、知らない道へと駆けていった。
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