急に真面目になりやがった
一月ほど経った。
アベンジスキャンプの日まであと一か月。スケジュールに書いてある赤○の枠を離れて一ページ。現在は1月中旬だ。メモを閉じて隣の人間を見た。
サングラスをつけ、土埃一つない十万円はしそうなサウスバックのジャケットに身を包んだ初老の男、木ノ内が横に立っている。
彼は煙草の先をごみ箱に落としてこちらを見る。
「そういえばお前、パチンコ辞めたのか?」
「え?」
すっかり煙草の臭いが消えた自分に、木ノ内はとっくに気が付いていたようだ。
「いつもキレてパチンコの雑誌でベンチ叩いてただろう」
「ああ、そういうのもいったん辞めてみたんだ。気分転換に……」
「煙草も?すごいな。何があったんだ。真面目か?」
木ノ内はスケジュール帳を見ていた。
それをポケットにしまって答えに窮したところで、青く澄んだ寒空に、冷たく乾いたバットの音が響いて、米粒ほどにも見えないボールが飛んでいく。
「あっ。また打たれやがった。馬鹿たれ。おい走れ走れ!!名倉ァ!」
「センター前ヒットだな」
服巻が答えたとたん、球はぐんと軌道を変えて落ち、二塁と外野の間、ど真ん中に落ちて行き、誰も追えずにポトリと落ちた。
「何で分かった?……って名倉ァ!早く捕れオイ」
名倉が走ってスライディングするものの、砂が巻き上がった甲斐もなく、ミットの一メートル先でボールは落ちて無残にもころころと転がった。滑った姿は何とも無様で、相手チームの三塁走者は笑いながら悠々とホームベースに戻り、これで三回二点、さらに後続がスライディングしてダメ押しに一点を食らう。病欠の選手の補欠で採用せざるを得なかった名倉が弱点であることを早々に見抜いた相手チーム川越店合同は、自チーム川口店合同を打ちのめし、木ノ内の機嫌も壊した。
「まーったく。一回崩れるとどこまでも壊れちまうな」
「お前監督だろ」
「今日ウチはやられる。正直、驚いたりはせんよ」
服巻はため息をこらえる。木ノ内は、このヤリミズディーラーズ野球クラブの監督で、実質埼玉のエリアマネージャーという偉い立場だったが、服巻とは友人のために、ラフなやり取りができる人間だった。誰もが表向き敬意を払っているのも理解できる。
服巻の実績とこの男との信頼関係が、店長の政治的な攻撃に対する盾だ。
例により、スケジュール帳には仕事以外何も書かれていない。
元の服巻は肯定的に思っていたと解る。
そして今、服巻はこのチームのコーチの一人だ。今日の出勤は店長を中心とする人間たちで、自分たちは休暇になる。週末の午前中、川口市内の高校にあるグラウンドは、ヤリミズディーラーズ野球クラブ、川口店他三店舗合同チームと、対戦相手の川越店他四店舗合同チーム、そして数人の部活動の学生だった。
緩慢なフライがキャッチされて攻守交代が確定し、選手たちが退く。誰もおらずがらんと空いた、広大な地面にはぽつぽつと野球のユニフォームを着た大人が走っている。その様を一望できる端っこのフェンスの前に設置された支柱付きの屋根、そこに服巻は立ったまま、またしても打たれ、空中になだらかな曲線を描いていくボールを見ていた。
「……で、それからどうなった?」
「どうなったって?」
「こないだ言ってた離婚のことだよ。もう終わったんだろ」
ん、と空を見上げてみたが、思い出せなかった。脳の中には記憶されているはずなのだから、引き出せなかったという方が正しい。
「ああ、部屋が大きくなったくらいだよ。深く聞くな」
と言って服巻は素知らぬ顔をする。本当に知らないのだから聞かないでほしい。その目が違う読み方をされたらしく、木ノ内はそれ以上深く聞かずただ笑った。
「はは、そんなもんか。墓場とはよく言ったもんだなあ。俺も何で結婚なんてしたのか自分でも解らん日があるさ」
服巻らしい答えを用意したい。うーん、こうかな?
「それに比べれば今は自由だ。昼間から浴びるように酒が飲める」
「いいさ、いい。屑になれ、好きにしろ。独り身なんだから。全部面倒になってくるんだ。それが終わったら立ち直るしかない」
木ノ内と服巻がPINEで頻繁に連絡を取っていることは、入れ替わる以前の履歴を参照して確認済みだ。趣味や交友関係においては、過去のログに書かれたことを学習し、服巻の言葉をまねするように話せば、その人間とのやり取りはスムーズにできることがわかっている。この手法を用いて、服巻の実家がある熊本への帰省を回避することができた。
といっても、PINEのトップにいて頻繁に連絡を取っていた従弟のサラリーマンから遠回しに聞き出した結果、服巻武は一人っ子で育ったものの子供のころから反骨心と、もっと言えば……いじめっ子の気質があり、度々両親とは衝突を繰り返していたらしい。
成人して関東に住み、離婚間際になってからは家族全体で折り合いがつかなくなっていったのか、年末年始の長期休暇にもかかわらず家族全員で行動することもまたなくなったため、もっぱら妻は娘を連れて大阪に帰省していたらしく、九州への足も同時に遠のいていたそうだ。そしてその話のついでに今年の帰省もやんわりと否定しておいた。
裏合わせに気になるのは高峰自身の帰省だったが、これは全く見当がつかなかった。
せいぜい事態がいいほうに転ぶことを祈るくらいしか手立てがない。
同じ二十四時間を生きているのは今の高峰修も服巻武も同じだろうが、その行動の一つ一つを心配したところで得られるものは何もない。
例えば感情に残された記憶、つまり『高峰が今こうしたいと浮かんだ欲求』に従って高峰が行きたいと思ったところに行ってみる。おそらくジムや、サイクリングしていたであろう道であるとか、とにかく自分が思いつく限り当たってみた。
意志で動く体を脳で記録する。あわよくばを期待したが、高峰とはついぞ遭遇しなかった。だから気が滅入るより前にその考えはひとまず思考から廃して、キャンプの日を目指して生きるよりほかにないと結論することにしたのだった。
話を元に戻そう。木ノ内はこの野球チームでのメンバーについてああだこうだと議論という名の愚痴をこぼしたり、一緒に高級風俗に行ったりした結構な仲で、離婚でもめた時にいろいろと話を聞いてもらっていたらしい。
「一時期の荒れっぷりからすれば大分ましじゃないか?やけに落ち着いてるし」
「そこまでひどかったか?」
「そりゃあもう。なんだよ自覚がないみたいだな。練習で選手がミスするたびに、何度イスがひっくり返ったことか。部費で買ったんだからな?会社の金だからまだいいけど。俺関係ねえし」
「お前だってそうだろ」
服巻は木ノ内と話すとき、この『俺は俺だ。俺だから仕方がない』という言葉を使っていた。木ノ内はただ見下したように笑ってきた。
なるほどと思った。店長といい、この男といい、ある意味服巻の限界を見透かしているのだ、そして当の服巻は、それに気づいてもいない。
「まあなあ。俺も自分がわからんときがある」
しかし、店長と違ってこの男は無自覚に人を見下しながら、友達のように接してくる。見る限り服巻もそうだ。だからこの男と服巻の人間関係は壊れないのだろう。服巻は組んだ腕を少し解いて、抜かりなくサングラスの男の薬指の指輪を見て確認を取り、話した。
「そっちの家庭はうまくいってるのか?」
「俺の話は聞くな」
「そういう決まりだったか?別にいいが」
「聞くな聞くな。休日の昼間から打ちっぱなしに行く時点で解れ」
邪な顔をしながら、どこか話したいような空気を醸してくる。
そんな木ノ内のスマホのロック画面には、娘と息子と思しき子供の写真だった。ムカつく。これは服巻の感情なのか?まあいい。それにしても意地悪な野郎だ。誰だって少しは虫唾が走る。
すると快音が鳴った。
気づけば地面ギリギリを疾走するピッチャーライナーを目で追いかけていた。
「いい球だな」
「清宮君はなかなか面白い打者だよ。盗塁もうまい」
「なるほど、盗みもうまいか」
「そう、小回りも効くしな。若い奴の中では一番動ける。正直、いつお呼びがかかっても不思議じゃない」
そこでピコン、とPINEの受信通知が来た。折田からだった。
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