Ⅳ アングル:右斜め四十五度

美女と野獣

 ようやく動揺が収まってきた。

 一週間が過ぎ、服巻の皮をかぶった高峰は、服巻の横暴な職権を利用しできる限り出社を控えながら、服巻が残したスケジュール帳を頼りにして、彼に擬態していた。

 そして仕事をすればするほどスケジュール帳に書き込むことは膨大になった。

 高峰の武器は、その分析力にある。

 今の時代、SNSに残された書き込みと、メールのログ、ウェブの検索履歴などを観察すれば、外面においてその人に『なり替わる』こと自体はそこまで困難なことではないと解る。実際情報収集という面で見ればあらかた誰にも怪しまれずにできてしまった。

 そして激痛にさいなまれないように毎日薬を飲み、血圧を上げまいと毎日二リットルの水を努めて飲んだ。ヤニ臭い布団とベッドを早々に買い替え、冷蔵庫にあった開封済みの食べ物をすべて捨てて一新した。

 まあ、他人の家にあるキムチなど食べられるわけがない。これも高峰の心がなせる業だ。せめて食生活でもと思ったが、なぜか今はもう、すっかり高峰の食べていたものを思い出せなくなっていた。

 そういえば初日に買ったものは、記憶ではなくて食べたいと欲するものばかりだったような気がする。高峰の健康的な食事ルーティンは、その日に欲に従って買ったもののラインナップを撮影したスマホの画像でわかるが、一週間もすれば低糖質の食材になど興味もなくなり、揚げ物がほしくなり、安い酒は飲まないという掟を肉体が破り始めた。

 だが、スーパーでチューハイの缶を手にした瞬間、そんなものに負けている程度の信念が情けなくなって、意志の力だけで、服巻の体に立ち向かおうとする事の無理を知り、強いるような食生活を止めることにした。

 誰も見ていない環境ならばまだいいのだ。

 その分、家の中では一歩も動けなかった。

 誰も見ていない環境が一番安らぐ。だが、人と対面するならば話は別だ。心の活動が活発になり、疲れきってしまう。歩行で例えるなら、高峰は歩くとき、右足を前に出して左手を後ろに振る。服巻はその逆だ。高峰が服巻の中に入ってしまうのだから、右足と右手がどうしても同じタイミングで前に出てしまう。それを修正しながら歩き続けなければならない。

 そんなことが心において起こる。

 禁欲的な高峰と、享楽的な服巻では感覚があべこべだ。


 初日のように、身体に任せれば客前では服巻になりきることができてしまう。だがこの重力に任せてしまうと、高峰は服巻になってしまい、暴飲暴食し、煙草に手を伸ばしてしまう。そうなれば一流の野球選手も年収九百万のただの男にすぎなかった。貯金額は不況下にある日本の普通の会社員にしては多いか、年齢を考えれば平均ほどだが、そもそも華々しい野球人生を送ってきた金銭感覚の高峰からすればはした金だ。

 ただ、服巻においては、このくらいの人間であれば投資だとか、高峰が踏み入れようとも思わない領域にまで手を伸ばしているのかと思ったが、ひたすら貯蓄額を増やすばかりで、それ以外は遊ぶ金に使っていたらしい。

 多分大損したんだ。そう思った。このマンションの一室は、一人で暮らすには大きな部屋で、車も四人乗りの大きな車だ。

 おそらく家族で住んでいたのだろうといろいろと探ってみたものの、服巻の家庭が崩壊する以前の遺物はすべて持ち去られて元妻の名前を確認することもできなかった。

 PINEのブロックリストには、それらしき女性の名前があったものの、下の名前で書かれていた。邪なものを覗くような気がして、服巻の脳に閉ざされた記憶を辿ることはしなかった。

 『自分』とはなんだ。そう考えさせられることが多い。

 いや、いつも考えていないと高峰を保つことができない。ふと椅子に腰かけて下あごを指で触りながら、高峰のアイデンティティーは考えていた。

 この意識も、必ずあるべき自分の身体に戻る日が来るはずなのだと信じることで絶望を回避するほかなかった。こんなに無茶苦茶な体験はあったものではないとも思っていたし、知れば知るほど、服巻という男の傍若無人な振る舞いは高峰修と天と地だ。

 だからか、乗り舟としてはこの人間のできる限りのことを知る必要があった。逆に、不自然でないと思えるくらいに徹底的に服巻を再現しないとならないような気分さえ、今はしていた。収入と社会的信用を失うことはできない。

 この生活がいつまで続くか分からない以上はそうだった。

 服巻になってから、すぐに始めた新しい習慣がある。

 ブルーレイレコーダーに、高峰選手あるいはアベンジスの情報を報道した番組を徹底的に録画して確認すること、そしてSNSでエゴサーチをする事、魂あるいは心の交換を行う方法を検索すること、アベンジスのファンサイトから会うチャンスのあるイベントを調べることだ。

 前者としてはとにかく高峰修に服巻が入っているのか知りたかった。後者は、天から降りる一筋の糸を探すような思いがそうさせていた。しかし両方とも、今は暗礁に乗り上げていた。高峰のメディア露出はなく、それらしいことを伝えているインターネットの情報は一つもなかった。見つかったと思ったらそれはテレビ番組か映画の解説サイトか宣伝だった。今年のキャンプはバックネット裏の席の観覧が抽選になっていたが、これも落ちた。

 十二月、平日の昼間。

 静寂のリビングに大きな音でインターホンが鳴り、ソファから立ち上がる服巻は、『きたか』と思って玄関先へと歩いていく。

 ドアを開けると慌ただしく荷物を差し出した宅配員が自分の名前を確認した。

「服巻武さんですね」

 頷くと服巻、と書くようにサインを求められる。

 これだけでも納得がいかないものの、宅配員が自分の目も見ずに去っていくのを確認して安堵した。服巻を知らない人間の前だと、気を遣わなくて済んだ。

 それはいいことだ。

 メール便の袋から開封したのは、真っ白な硬式野球ボールとミットだった。

 ボールを握ってみると、この上なく落ち着いた。高峰の記憶だと思いたい。ミットに手を通すと、下ろしたての皮のにおいといまだ手に馴染まない新品の硬さを覚える。

 そうだ。この感覚こそが俺なんだと、半ば自分に信じ込ませるように握りしめると、そのまま眠りこけやしないかというほどの安心を全身が覚えた。

 これが自分だ。そう思って立ったまま、ボールを頭の高さまで投げ、ぐっと広げたミットでキャッチしようとする。しかしボールはミットをかすめて床に落ち、迷惑になるほどの音を立てて床に転げて、椅子の足にぶつかって止まった。

 思いのほか響く音に寒気がした。ここはマンションの最上階だ。

 ボールを掴み、全身鏡を見て投球フォームを確認しようと試みる。

 手指の先から足の先まで決まった動きがあったはずだったが、しかしバランスを崩して転んでしまい、全身鏡があおむけに倒れて体に降ってきた。

 間一髪で額を受け止めたが、ぼてた腹でも受け止めていたことを理解したとき、そこにプロ野球選手としての鋭敏さはないと自覚した。おまけに投げ方も、立ち方も、重心の移し方も、すべて忘れていた。

 暗澹たる気持ちにさせられる。大丈夫じゃない。その言葉が頭をよぎる。 

 例の社会人野球部にも顔を出さなければならないが、これを回避する手立てはない。アマチュアでも野球に触れるチャンスがあることは、実は高峰にとってみればよいことだとも思っていた。しかしこれでは……そんなことを思いながら視界に入ったテレビを見ると、ある女優の顔がテレビの前面に現れる。


『芸能人の裏の顔に迫るトークバラエティ!次回は広橋澪さんをスタジオにお迎えして、私生活や本当の彼女の素顔に迫ります!日曜夜九時!』

 CMの終わりだったようだ。お笑い芸人とにこやかに話している澪の顔が、次のCMで映る広大な宇宙のCGに変わったのは次の瞬間だった。

 澪が呼んだ気がした。

 少しでも自分を思い出すことだ。そう思い直すクールさがあればいい。

 それが高峰修、自分自身のはずだと何度も言い聞かせた。

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