殴られるから名倉なのか

 そのまま、足が赴く方向に歩いていくと、喫煙所があって、そこで猛烈に引っ張られる感覚を覚えて、気づけば指に煙草をつまんで、喫煙所のドアを開けているのだった。

 そこで疑念は確信を得た。これは服巻の身体が欲しているのだ。

 頭の整理がつかないが、あの客を応対した後、強烈な喫煙欲求に襲われているのは、実は服巻の脳を使って情報を引き出したからではないだろうか。そうとしか言いようがない。 

 高峰修があんなことを知っているはずがないのだ。

 俺は今、心は高峰修だが、身体は服巻武なのだから。

 そう考えているうちに、煙草の吸い方すら知らないのに、ジャケット裏に手が伸びて、そこにあったジッポライターを取り出し、出た火を器用に使って、煙草の先が赤く光るのを見た。吸いたくはなかったが、この強烈で刺激的な欲求には勝てそうにない。意を決さずとも吸ってしまうと、口から鼻、肺にかけて、清らかな水が流れているかのような快楽すら感じていた。息を吐くと、頭の中でエラーを起こしまくった想念のゴミがそのまま外に出て行くように、白い煙が立ち上るのを見た。

 ああ、超気持ちいい。

 満足したのだ。

 瞬間、煙草の臭いは反転した。

 臭すぎる。凄まじい悪臭となって服巻にまとわりついてきた。

 むせ返る。

 不快な残留煙を手で払いながら、ほうぼうの体で喫煙室から出ると、そこで正気に戻る。

 俺は高峰修、俺は高峰修、俺は高峰修……こんな奴の人生なんて御免だ。

 そう何度も言い聞かせて目を閉じ、深呼吸し、煙草の不快なにおいが消え去るまで廊下をうろうろとする。服についた臭いを消すのには少しかかるが、オフィスに戻るころには何とかなっていてほしい。

「服巻さん、遅れました!」

 曲がり角で鉢合わせた。

 仕事を終えて曲がったネクタイが、何より待ち望んだもののように見えた。

「折田ぁ」

 ダメだ。やめろ、今の声は情けなさすぎる。

 思わずそう言うと、折田が会釈する。彼の横にいた名倉の顔は、外回りの前よりもほんの少し、表情を取り戻しているようにも感じた。落ち着け、そうだ。高峰が服巻を演じるのだ。乗っ取られてはならないのだ。

 そう思い、余裕ある感じを装って言った。

「なんだ、いい顔してるじゃないか。数字でも上がったか?」

「僕と一緒に訪問したご家庭の親類に繋がって、新規のお話になったんです」

「よし、まずは一件だな」

「それが、定年間際で遊びの車が欲しいという事で、レガンザの二人乗りハイクラスのスポーツタイプを即決だったんです」

 折田が『高いヤツでなかなか売れません』と台詞を加えた。名前を言われてもよく分からないが、多分ツーランホームランくらいの結果を収めたんだろうと考える。

「早速お渡しできるものはお渡しして、確約を頂きました。抜け目なく」

「そりゃあすごいな」

「幸先がいいですね。このまま何件も決まっていかないかなあ、とは思ってるんですが」

「そうだな。まあ、次々決まれば言うことはない。頑張れよ」

 すると、名倉がはい、と答えた。我ながら中身の全くない返事だ。ふと、服巻には不思議に思える。この話、決めたのは折田ではなかったのか?

 と考える暇もなく、反対側の廊下から凄まじい怒り声が聞こえてきた。

「おい名倉!」

 肩をいからせた清宮は、情緒不安定にも見えてくる。午前中から昼までに、裏では怒ったり客の前では笑顔になったりトイレでは愚痴ったり同僚には急かしたりして、感情が圧縮されているこちとに気づいていない。そしてそれはすべて矢印となって名倉に向かっているように見える。

「お前、またやらかしやがってコラ!こいつ借りますわ」

 清宮は名倉のスーツの肩パッドを無理やりつかんで個室に引きずり込んでいった。

「ああ、また大変なことに」

 バタンと閉じたドアの向こうから、声は聞こえないが、物がバタンバタンと音をたてている。

「いつもなのか?」

「そうですね」

 お前も傍観者なのか?

「止めろよ。もしくは俺が行こうか」

「やめてください。僕が行けば殴られる人が増えるだけだし、服巻さんが行くのは不自然です」

 こんなのは許せん。俺は服巻の身体だが、高峰修だ。

「ひどい職場だな」

「日本全国、こんな店や会社が一つもないわけではないですから」

「ひどい言い訳だが、俺に言い返せるわけでもない」

 と言いつつ、服巻はネクタイを解いてドアの前に立とうとする。

「行くんですか?」

「どんな業界でも一緒だ。パワハラは許さん」

 ガシャン!とドアを開けると、そこには胸倉を引っ張り上げられた名倉が、清宮に恫喝されていた。

「清宮、そこをどけ」

「ちょっ、服巻さん……」

「俺のほうが言いたいことがあるんだ、解るだろ。分かったらさっさと出ていけ」

 清宮は塩水をかけたナメクジのようになり、ため息をつくと最後に名倉を睨みつけて去っていった。すべてが終わった後、折田も高峰も気まずそうにネクタイがひしゃげた折田を見た。名倉はネクタイを直しながら、がっくりと肩を落としたままこちらに頭を下げた。

 そして震えながら服巻を見る。しかし服巻は予想しうるだけの名倉の意に反して

「次、気をつけろよ」

 そういったきりで話を終えた。

「まあ、もういいから飯にしろ」

 ぴくっと体を震わせると、何が起こったかわからないような顔をした。

 隣でニコリとする折田を見ると、名倉はもう一度お辞儀をして休憩室へと入っていく。

 はっきり言おう。名倉のおかげで窮地に立たされた。それにこちらとして不満に思う部分がないではない。だが、それを叩きつけたからと言って何かが変わるわけではないのだ。

 エラーした選手を責めてもファインプレーは引き出せない。

「かっこいいです。服巻さん」

「これは高峰の気持ちだ」

「別人じゃないですか」

「当然だ、俺は中身が違うからな。いろんな意味で」

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