超絶ファインプレー接客
「納得いかないだろう!」
そんな言葉が聞こえたのは、暇な時間がしばらく経ってからだった。
ディスプレイ用の傷一つない車の横で、小柄だが神経質そうな顔をした初老の男が仁王立ちして清宮を睨みつけていた。清宮は整備士を伴って向かいに立ち、頭を何度も下げつつ、釈然としない顔を向けている。
しかしその手はイラつきに震えていて、握り締めた手が石のようになっているのを見た。
そのやり取りを見ているうち、自前の対処が無理になったのか、お客に断りを入れた清宮がこちらに向かって急いで来る。
クソ野郎、やりやがった。ぶっ殺してやる。
ああ、ダメだ。コントロールしなければ。
「……どうしたんだ?」
服巻らしい苛立ちを加えたつもりだったが、何故か自分の思ったより怒気を孕んだ声になったことに驚く。
「俺のせいじゃないんですけど」
などと言い淀んでから、それをもみ消すように清宮が言う。
「すみません。ハイニューエスをご成約された下田様なんですが、納車中にカーナビがついていないとお話しされてまして。契約書面の中にカーナビがあったはずだとお怒りです」
一瞬頭が真っ白になる。そして次の台詞が頭を駆け巡る。
おめえでどうにかしやがれ。その暴力的なノイズの向こうに、しかしこだます声がする。そんなのどうすればいいんだよ、そんな弱気な声が。
清宮の声は続く。
「あの、車にナビが付属してなくて、整備士も付ける予定がなかったと言ってます」
書類……。書いてないものはないはずだと当たり前に考えるしかない。
「確認したのか?」
「書面も見ました。お客様と一緒に見たんですが、カーナビはありませんでした」
「それで納得しないのか?」
「されてません。カーナビ付きで契約したと一点張りです」
「困ったな……」
俺の顔に泥を塗るのか、久々のやらかしだ。
自分が想定する以上の怒りの表情を、自分は今作ってしまっている事を窓に映る自分の顔で知った。なんだこの怒りは。腹の底から湧き上がって仕方がない。
恐ろしい。どう対処する?
とにかく相手の目を見る、だめだ、睨んでしまっている。
清宮はしどろもどろになり、弁解するように言った。
「これは名倉の担当案件です。もう15万も値引いてるのにあの野郎、適当こきやがった」
清宮は明らかに、ここにはいない、仕事をとちった名倉に怒っていた。
服巻は目を閉じて深呼吸をはかる。
しかし、自分の中にも湧いてくること感情の高ぶりをコントロールすることが難しい。どう怒ったとしても、名倉に処理させることもできない。値段を変えることもできない。
もういい。
「俺が行く」
「え?いやアドバイスだけしていただければ僕が対応して」
「いやいい。俺がやる」
全ての営業のサポート役というのは、つまりはそういう事。服巻が面倒を起こすなと言明しているのもそう、強烈な自立を部下に促すのもそう、そして面倒ごとを起こした部下に対する態度が凄まじい雷になるというのも……そういう事だ。
無言のままデスクを立つと、自分と同じほど不機嫌な態度を貫いている初老の男の前に立つ。そのままうんざりしたような表情だった。まるで『いい加減にしてくれ』という声が聞こえてきそうだ。
「申し訳ありません、下田様」
「とにかく何とかしてくれ。こんなふざけた話はない」
なんて言えばいいんだ。こんな時どうすればいいんだ。
迷いながら静かに、言葉を紡ぐ。
「ああ、書面の方は」
「もう見た。何度も言わせるんじゃない」
「申し訳ありません。私の方でも確認いたしました」
次は、えー、名倉が悪いんだった。頭を下げよう。
「この度は担当の名倉が大変失礼を致しました」
「もうそれはいい。だったらどうしてくれるんだ?もう一回説明する気はないぞ」
名倉の野郎、後でぶん殴ってやる。
男の一言一言には電気がほとばしり、そして暗い方に引き込むような重力があって、心が過敏に反応しているのが分かる。
相手もそうだ。何で分からないんだ?ふざけるのもいい加減にしろと言わんばかりだ。
そのはず、今の服巻にはこの男とコミュニケーションし、話さなければならない言葉など持っていない。しっかりと考えを伝えなければこの客は怒ったまま、さらに激怒しかねない。
しかしどうだろう。
何とも理不尽な話だ。
自分は野球選手のはずなのに。思いがふつふつと沸き上がった。こんな茶番に付き合わされて。そう思うと、何だか別の意味で怒りが湧いてくる。
なんでこんな男にやられっ放しにされなきゃならないのか。
俺はこんなところにいる人間じゃないし、お前と俺に何の関係があるんだ。
そこで、先ほどの怒髪天を衝く怒りは服巻のもので、愚痴っぽい怒りは高峰のものだと分かった。そこで何故か、何かが分かった気がした。
クールダウンした。
アイデアがひらめき、口が滑った。
「この車はあくまでベースモデルなので、アンテナや配線まで車に備わっていないわけではございません。逆をいえば、ご契約で取り付けられるナビの『コーチビルダー』よりも安価なカーナビをお客様がご自由にお選びになって取り付けることも可能ですよ。これは最上級モデルなのですが、今の時代、位置を把握する能力だけとればどのカーナビでも大して変わらないです。どうしても書類に記載がない以上は、『このままでは』カーナビのない状態の契約になるのですが、むしろその方がお客様のご希望に添えるかもしれません」
「そのナビが一番性能いいんだろ?名倉君が言ってたんだよ。俺も家内も方向音痴で、ないと困る!いちいち選ぶのも面倒だから名倉君に全部任せておいたっていうのに。高いカーナビだから一緒くたにしておいたら面倒がないと思ったから、あんたらに、全部!頼んでおいたっていうのに!」
どうしてだろうか。頭が冴える。自分が言っていることも理解できる。
「そういう事であれば、もっと安くていいナビを別途お買い上げ頂く方が断然お得です」
自分でも驚くくらい、すらすらと言葉が出て驚く。一分ほど会話した結果、お客は車の契約と別に、当初の予定よりも安いカーナビを名倉から提案させてもらうことになった。
「よくよく名倉に申し伝えておきます。大変申し訳ありません」
「とにかくこっちで何でもやらなきゃいけないことになるのが気にくわないんだ!餅は餅屋!車屋は車屋だろ?仕事をしてくれよ!」
服巻は重ねてお辞儀をし、男の怒りは収まったようである。その後は整備スタッフに引継ぎ、服巻のやる事はひとまず無くなったところで、バックヤードに戻り昼休憩を迎えた。
どっと疲れてデスクに座る。無言で腕を組んで照明を見ていた。
まだ、あのクレーマーの男の残響が耳の奥に留まっていた。
手が震えていた。ここはマウンドじゃないんだ。
人の感情と相対してるんだ。そう思った。
その時、戻ってきた清宮が、本人がいないのをいいことに不満を口にしはじめる。
「名倉あいつマジでこの仕事向いてないっすよ。あの客もクソだし……」
「自分が車を買うんだから、自分で確認して手綱を引けばいいんだ。契約書を見落としたのは客だ。本当は責められる言われはない」
服巻は、高峰の所感を言葉にした。清宮は、マジそれっす!と首を振って頷きながら何かと文句を重ねてくる。聞く気はなかったが、一つだけ聞き逃せない台詞が耳に届いた。
「でも何で名倉に仕事持たせたんですか?」
「え?」
「俺にカーナビの案内させてもらったら、あの客の次の車であいつの客、獲れたのに」
その声は、えらく冗談めかして、何か回避的なニュアンスを帯びた。服巻の判断に異論を唱えた事への恐怖を回避するために、冗談という事にしているのが分かる。
卑怯だと思った。服巻は憮然として何も答えず、一言だけ訊ねた。
「そういうことは何回もあったか?」
「ずっとそうしてたんですよ。折田も名倉も他の奴も、トラブル抱えた客は得意っすから。さっきのも、多分俺だけでできたし、だからすいません」
どの反応も正確ではない気がして、服巻は黙った。自分で打ち取った三振が他人に奪われるようなものだと思った。その協力者になる気はなかった。
そのセリフを残して表に戻った清宮は、何の煩悩もないような笑顔で仕事を始めた。
「清宮の昼休憩は何時だ?」
女性の事務を向くと、松浦と名札に書いてある。彼女はびくっとのけぞって答えた。
「に、二時ですけど……」
そんなに怖がらなくても、と思ったが仕方がないだろう。服巻はバックヤードに戻り用意していたバナナと手弁当を持って廊下に出た。それは自分が高峰だった頃に口にしていたと思われるものだ。
インタビュー記事を読んで知り、実際に並べてみるとそんな気分がした。そう言うおぼろげな形でいいから、高峰を再現したかった。
入れ替わった直後はまだ記憶が生きていたような気がしたが、服巻の暮らしに入っていけばいくほど、高峰の記憶は無くなっていく。恐ろしかった。
だがともかく、今日午前に立ちはだかった全ての事態が終わった。
そう一息をついたとたん、猛烈に自分の身体が何かを欲している感覚に襲われた。
便意にも近かった、しかし違う。何なのか自分でも分からない。
吸いたい。吸いたくて仕方がない。
タバコを吸わせてくれ!!!!!!!!!!!!!!!
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