最低の朝礼
廊下の外からは既に人がいるのか、部屋の中で行われる事務的な音と声が響いていた。
女性も男性もいるだろう。少し、笑い声すら聞こえるほどだ。服巻は一歩先に進む折田をまるで杖のように頼りにしていた。
何せ中身は社会人経験が乏しい野球選手。
こういった場所に足を踏み入れた事すらないのだから当然だ。
「おはようございます」
ドアを開けた折田が入るなり声が止み、瞬時に張り巡らされた糸が凍っていくのを感じてこちらがたじろぎ三秒留まると、余りにも突っ立っている時間が長いのか、折田が少し振り返って頷く。
我に返って自分が服巻であることを思い出す。部屋の中に見えた七人の誰もが自分と視線すら合わせようとしない。
「おはよう」
小声でそう言って顔を上げると、折田が何となく、何気なく指を差してくれて自分の座る位置が分かる。
「服巻君、おはよう」
だが、折田が指を差していたのは部屋の中で最も見渡しのよい大きなデスクに、両肘を立てて顎に付けた男の方だった。ホームベースのような顔の輪郭に、鋭いまなざしを眼鏡で隠したような男が、上機嫌にも聞こえる声でこちらを睨んでいた。
「おはようございます。店長」
「昨日の休暇はゆっくりできたか?」
「ええ、一日中部屋でしたが」
「君のことだからまたゴルフにでも行ったと思ったが、もう引退も考えているのかな」
しびれるように、イラつきが頭に走って言葉になった。
「いえいえ、すこぶる元気ですよ」
「ほう」
店長は何も言わない。間が抜けて、頭上の蛍光灯を見た後に店長の目を見る。
「バットを振り回す程度には」
「それはいいことだ。君の野球チームも結果がついてくればいいな」
「野球チーム?」
反射的に言葉にすると、今度は店長がおやと面食らったような顔になった。
「本社が社員交流の場として規定した部活動だ。君に私物化されているから本来の趣旨を重ねて伝えたが、そこまで驚くことかね?」
「ああ、そんなものもありましたね」
「なんだその返答は。一店舗に必ず部活を置かなければならないから存在が許されているんだぞ。だいたい……」
それからの店長の説教は、君は、とか本社も本社でとか、余りにも入ってこない内容ばかりで、自分でも驚くほど聞いていなかったのに気づけば目だけはしっかりと合わせていた。
諦めたのか、その憮然とした態度に気圧されたのか、店長は押し黙って席にもたれることになった。折田から聞いていたが、店長は犬猿の仲の服巻をどこかの店舗に飛ばしたくて仕方がないのだそうだ。
しかし不思議だ、いつもの自分ならば一字一句人の話はしっかりと聞くのに、全てのディテールが落ちるように話が入ってこない。人の話を聞かない自分を制御できないかのようだ。ガミガミと言われたことなどよりも、その事の方がよほど気になる。
空気の凍った部屋を振り返ると、ここには十人前後のテーブルがあり、PCがあった。今は自分と折田を抜いて五人ほどの人間がいる。後ろには個人の販売した車の台数、つまり営業成績を表したグラフがあって、それに目を奪われた。ああこれはドラマで見たことがあるぞ。何というタイトルだったか……ノルマを越えたら花の飾りをつけていたな、と。
「折田」
「はい」
「この成績は昨日までのものか」
誰かが唾を飲む音が聞こえた。別に、ただ興味本位で。そんな理由で聞いた自分のうかつさに気付き、何気なく凝視してしまった自分に気付くと、その時一層、凍り付くような空気が満ちていることが分かって、そうか、この動き自体まずいのだと解る。
「服巻君。……説教は朝礼でやりなさい」
店長が先ほどよりも減退した声の調子でそう言った。そこで別の視線を感じ、眼鏡をかけた女性が、ひそかに鋭い視線を浴びせてくるのを理解した。
折田が無言でサインを送ってくる。
機械に向かってカードをかざすふりをしながらこちらを見ていた。
どうすんだ?折田に視線を向ける。もう一度折田は社員証カードを機械にかざして、わざとらしく機械に当てた。ピッと音がして出社時間が出る。服巻は真似をする。
時刻は八時半になった。折田の話からするとここで朝礼の音頭を取るのは店長だ。
「では朝礼を始める」
と言うと、ここにいる全員が店長の前に無言でさっと集まり、服巻の視界に納まって立った。
「皆、改めておはよう。では唱和」
『私達ヤリミズディーラーズは』
と店長が言うと従業員が同じ言葉を唱え始めた。
服巻の口の動きは全く追いつかない。
『常にお客様に寄り添い安心、安全、充実のカーライフを実現します』
『お客様のために、あらゆる導入課題を解決します』
『すべての人、環境に敬意を持ち、地球と文明の調和に寄与する製品を普及させます』
声を出す人間と、出さない人間とでバランスの悪い唱和が終わって、皆空中を見ているままだった。ふと視線を落とすと折田が用意してくれた紙に、『最後は服巻さんが笑顔で、地元サイタマを元気に!と言って終わります』と書いてあって、顔を上げた。
「あっ。さ、サイタマを元気に」
その場に流れる空気を察して皆無言のままだった。
何でおれがこんなことをしなくちゃならないんだ。恥ずかしい。全てが真っ暗闇。
そんな感覚を覚えて踏みとどまった。
それを言ってはお終いだ。コントロールしろ。
スタジアム五万人に見つめられても何ともなかったのに、この空気で五人ほどに見られただけで途方もない圧迫に襲われるのはどういうわけだ。
と思っていたら、一番後ろに立っていた折田が満足げにサムズアップしているのが見えて、怒りながら安心という複雑な気分だ。
あの野郎、後でぶん殴ってやる。
紙に視線を落とすと、次には『業績好調の人間への褒めと業績不振の人間への指導』と書いてある。『業務的な知識は入りません。成績表を見て上位の人間と下位の人間だけ、怪しまれない程度にほめてけなしてください。いつも話題に上がるのは清宮君と名倉君なので、皆内心うんざりするのですが、十二月は書き入れ時なので服巻さんの檄が飛びやすい季節ですので、叫ばないのも不自然です』
そこまで読んで、服巻は決めた。
「今日は成績についてコメントをしない」
その場の全員が顔を見合わせるほど驚いているのを見て、何かおかしなことでも言ったかと首をかしげる。その服巻を見て、また皆が首をかしげる。
いや、と思い返して服巻は自分の思ったことを率直に言った。
「いつも清宮と名倉しか話題にしないんだから、長々と説教したところで時間の無駄だろう。そんなものは野球選手を分析とか言いながら書き殴るスポーツ紙と同じだと俺は思う」
ますます不思議な顔をする皆の中で、再びほんのりとガッツポーズをして微笑む折田だけが突出して目立っていた。よっぽど嬉しいらしい。あの野郎、後でぶん殴ってやる。
店長は目を丸くして、いいのかね?と聞いてくる。頷いて答えると釈然としない顔で店長はかぶりを振った。
折田の紙には『あとは、店長から業務連絡があります。PCのヤリミズディールマスターという社用アプリにある掲示板を読み上げれば終わりです』とある。
内容は、提携元の自動車保険の内容確認、人気車種アロガンザマークスリーの新カラー発売についての告知、同車種をPRするHPの掲載内容変更といったもので服巻にも理解できないことはない。
「以上の内容を掲示板などで確認するように。それでは朝礼を終える。元気に頑張ろう」
店長の声が終わると、名倉と目が合う。
彼は素早く顔を伏せ、彼の後ろにいた清宮は何か面白くない顔をしていた。
何はともあれ、皆何かほっとしたような顔で持ち場に戻って座ると、折田はすぐに彼のデスクでまとめた資料をクリップに挟み、鞄に入れて立ち上がった。
「外回りに行ってきます」
そう言うと、皆パラパラと床に落ちた米粒の音のように返事を返す。
余りに事務的な挨拶に、おそらくここにあるであろうしきたりを感じた。
「ああ、折田」
「なんでしょう?」
折田が振り向くと、服巻は言った。ただの思い付きだ。
「今日は自分の案件の前に、一件くらい名倉と一緒に行動してくれないか?ああ、別に名倉が悪いわけじゃないが、お前の成績はいつも安定しているから、何かためになるかもしれん」
やはりこの部屋はざわついている。そこでまた、今の言葉が到底服巻から出るはずのない事を感じとる。
今まさにフロアに出ようとした清宮は、首をかしげてこちらを不審がる。
「ああいや、これでおめおめと帰ってきたら殴るからな」
などと取り繕いながら、ハハ、などと言って見せると、喉はからっからに渇いていた。
折田はこちらを向いて
「分かりました、名倉君のことはお任せください」
ただただそう言って、名倉と一緒に部屋を出て行く。
いよいよ一人で店舗にいなければならなくなった。これから退勤までおよそ十時間、先が思いやられる絵も言えぬ不安に駆られるたび、両腕を組んで胸に付けたまま周囲を只ならぬ表情で睨む。
服巻としては、それで正解だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます