右折:四十五度

生存戦略

 服巻の手帳にある二月のページにある、一日から十二日までの枠を、アベンジスキャンプの日程として丸で囲んだとき、インターホンが鳴って、モデルのような美人が自宅のドアの前に現われた。


 さすがに驚いた。

 服巻が手配したお楽しみだと気が付くと、早々に嫌気がさしてくる。だが日本の大物女優である澪との関係をもつ高峰が中身である以上、何の興味も湧かない女性とただ自分の欲求不満を一時的に解消させることなどできない。

 爆発する材料がない。


 だからお茶だけ振舞って家に帰した。間抜けな顔をした嬢はしかし払うはずだった報酬通りの額を受け取って満足げに帰っていった。 


 どうせ自分の金ではないのだから気にしていない。

 全く珍妙な光景であると我ながら思う。それに、自分の潜在意識なのか、この家にある食べ物に手をつける気にはなれなかった。最近は全く足も踏み入れたことがないスーパーマーケットに入って、自分が第一線の野球選手であったときに摂っていた食材と同じものを買って帰る。全てがスケールダウンした安物だったが、それは高峰修を思い出させてくれた。服巻の皮を被った高峰修は、そうして高峰を再現した。


 眠れなかった。


 当然ながら自分の元々の人生がどうなっていくのかの方が、服巻の身辺などよりよっぽど気になっていた。


 日本シリーズを制した後だ。

 選手の多くはマスコミにも姿を現さず、オフシーズンを過ごしている時期であり、結局過去の映像ばかりが繰り返されるのみだった。つまり、あの栄光の一矢を放った自分の表情と、チームメイトに胴上げされる自分の姿と、ビールかけで、もみくちゃにされる自分の姿と、そして高峰修のメジャーリーグをめぐる去就についてである。


 真っ暗な部屋の中、ぼう然とした表情でそれらをザッピングしていた。四角いガラスの向こうで、自分の人生の理想が絶え間なく流され続けている。自分はどこの馬の骨ともわからない怪物の着ぐるみを着て、澪と二人でワインを分け合った夢を見ている。

 アナウンサーが変わって、話題が次に移った。


『続いては芸能界引退が取りざたされる女優、広橋澪さんのドラマ最終作についてです』

 澪の笑顔が液晶画面いっぱいに映ったとき、鼻筋がツンと痛んだ。そして一流の芸能人として画面に納まる澪の、インタビュアーに答える短い映像が流れる。


 もしこの危険な男が俺の皮を被って君に近寄っているのだとしたら、俺は気が気じゃない。そうなれば、すぐに高峰からは離れた方がいい。

 だが、それがどれだけ苦しいことか自分が一番わかっていた。


 結婚指輪まで渡しておいて。

 一体どうすれば元に戻ることができる?その答えが分かるなら、今までのすべての資産など投げうってしまっても構わない。だが、今の自分は服巻武でしかなかった。呪術でも起こしたのかと思ったが、その服巻の部屋にはそれらしきオカルト本もなかった。ネットの検索欄になら、どれだけ意味不明な質問をしてもいいから、とにかく情報を探したが、これも何も見つからなかった。大体自分が受けたこの体験を説明することもできないのだから仕方がない。意識の交換なのかどうかさえも分からないのだから。


 そうするうちに、せわしなくテレビは澪の話題から切り替わり、別の芸能人の不倫や離婚のゴシップのニュースが流れていく。液晶を隔てた向こう側の世界で、高峰修の人生は今も展開したまま彼を差し置き進むのだ。

 スマホを見ても、折り返しの連絡はなく、そのまま映像を垂れ流したテレビは、時刻七時半を示しても相変わらず華々しい世界を映したままだった。


 つぶやきSNS、クリッターのタイムラインを遡っても、何の兆しもなかった。

 しかし、この男は野球とチアガールが大好きなんだな。焼き鳥とビールの画像を映したところで着信が入り、服巻は電話を耳に当てる。


「おはよう。折田」

『服巻さん。おはようございます。よくお眠りですか?』

「全く眠れなかった。結局朝五時に起きて、今まで俺の特集番組をザッピングしてたよ」

『それは……お疲れ様です』

「ああ、夢みたいなことをやったんだなって思って、それも夢みたいだなって考えてた。どこからどこまでが俺なのか全くわからないんだ。混乱してる」

「落ち込んでいますか?」

 そう言われて一瞬、間を開けてしまった。

「まさか。理由もなくこのままなわけがない」

『安心しましたよ。少なくとも今日一日は、服巻さんとしてやっていきましょう』

「ありがとうな」

『いえいえ。お礼なんて、いいんです』

 優しい声だと思った。男なのにハイトーンで、少し聞きづらいけど。

『推しの彼氏さんなんですから』

 そうだと思わず言いそうになる自分を抑えながら、自分がスター選手であると確認して

「ああ。噂はともかく俺は高峰修だ。こんな奴の人生なんて認められるか」

 自分に念を押すように、言い聞かせる。

「……体を絶対に取り戻すぞ。許せるはずがない」

『ええ。そうしましょう。では、後で窺います。失礼します』

 相変らずヤニ臭い部屋の中で、彼の声が途切れる。折田がいいやつでよかったと思った。

 オートロックの一人には広すぎる部屋を出ると、朝の新鮮で冷たい空気が服巻のぶよぶよとした頬を撫でた。家の前に止まった身軽な軽自動車の運転席に折田が乗って手を振っている。

 助手席に乗り込んだ服巻はミラーを通して、ネクタイを見る。


「これでいいよな?」

「問題ありませんよ」

「ネクタイの結び方なんて忘れていたんだがな。成人式とか、ドラフト会議の時とか、あとはCM出演の時だな」

 何とか思い出して取り繕ったが、思いのほかきれいに結べているようだった。


「服巻さんは客前でなければバックヤードで暇してるので、いつも緩めているか外していて少しルーズなのですが、それも再現できてます」


 そうか、と言って服巻は首に掛かるネクタイを見つめた。言われてみればなんとも横柄な感じが出ている。しかしそれを狙ったわけではない。何故だろうと思ったが、些細なことだとも考えたから、他にも情報を集めたかった。


「いつもこうして迎えにでも来るのか?」

 折田がハンドルを右に切ると、車は広い道を右折した。

「いや、さすがにそうはしません。服巻さんはお客さんには人当たりよくしてはいますが人間嫌いなんです」

「そうか。人間嫌い……」

「せいぜい皆二日酔いが残ってるんだろうと思う程度ですよ」

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