最低の男の部下
「え?」
明らかな違和感を露わにしたその男の顔を意に介すことなく、手で促す。
「座ってくれ」
「あ。は、はい……」
「なんだ?」
「いえ、何でもありません」
「分かった。やっぱりこの反応は違うってことだな。この服巻という男が普段取っている態度と、俺の今の態度は違うって、そう言いたいんだろ」
「そ、その通りです」
「だったらそれは気にするな、正しいから。今から俺の言うことは信じがたいかもしれないが」
「何かあったんでしょうか……」
「とりあえず、座れよ。ビビるんじゃない」
「わかりました」
折田の口はあんぐりとしたまま、動かなかった。それは用意されたコーヒーのマグから垂れる湯気にも向けられていた。冷静に考えれば、あんな人相の悪い男が、家に来た部下にコーヒーを振舞うなどという事すらあり得ない事だという事に、すべて用意してから気付き、とにかく結論からと思って、野球マガジンの見出しにある高峰修の顔を見せる。
マグが床についた、カチャンという音の後、折田という男からやっと絞り出た言葉は
「野球……?」
だった。
「俺のこと知ってるだろ。アベンジスのエース」
「すいません、野球、興味なくて」
「……ま、いいだろう、そういう人もいるだろう。でも俺がそいつだ」
「『君となら』ですか?」
「そうだよ、そんなアニメみたいなことが……ってやっぱり無理か。そうだよな、分らないよな。俺の言ってることなんて」
「いや、気配が変わってるってことはすごく実感します。中身が違うみたいだ。そんな弱気なこと、服巻さん言わないし」
「分かるのか」
「……とにかく話し方も雰囲気もまるで違います。やっぱり不思議なことが世の中にはあるんですね!いやーすごい」
折田のリアクションは、自分がこの上ないリアルさをもって彼に迫っている事を感じさせた。その時点で、もう観念することにした。
「そうか……。それにしてもこの服巻ってやつはいったい何者なんだ?」
「服巻さんはうちの上司で……」
急ブレーキをかけたように口ごもる折田を見て、思わず言った。
「どうしたんだ、口ごもって」
「本人を前にして何かをいうのはやっぱり。それに変な気分だし、自分が分からなくなる」
「本人じゃない。そうだったら電話の時点で君を叩き潰してるだろう、そうじゃないか」
「服巻さんならそうするでしょう」
「イエスなのかよ」
「ええ、その……部下からは『鬼教官』、上職からは『調整屋』として評価されています」
「調整屋」
「自分の課内であればどんな手も伸ばして、部下をこき使わせて成立させるからそう言われてます。自分に甘く、他人に厳しい体育会系です」
「とんでもないな。体育会系か」
「恨み買われてますよ」
「君からもか」
折田の表情が一瞬だけ、一層暗くなって、服巻はたじろいだ。
「いや、待て。俺が悪いわけじゃない……。いや、今は俺なのか、クソ、何なんだ一体」
「すみません。でも仕方がありません。あなたの言葉が正しければ服巻さんの皮を被っているようなものですし、ただ僕以外の人の反応は、これより厳しいでしょう。本当の調整役の店長と現場の営業を何人も使い潰してますから」
と言ったとたん、折田は口ごもり、視線をそらした。中身が違うとはいえ、その使い潰した犯人に訴えているようなものなのだから、当然だろう。
「そんなに悪い奴が……いや、それはどこも一緒か」
「野球もそうなんですか?」
「極端に業の深い奴か、極端な善人か、いずれにせよ自信がなけりゃ、どれにもなれんさ」
ひたすらプロ野球選手としての自分を飾った日々を思い出すと、折田が答えた。
「あの……。やっぱり高峰さん本人みたいだなって思います」
「信じてくれたか」
「ってことは、広橋澪とやっぱり、付き合ってるんですか」
服巻の皮を被った高峰は、コーヒーを噴出した。
「やっぱりってなんだ。無礼だぞ」
「SNSで本当に話題になってるんですよ。でも決定的な記事が出てなくて……」
「お前に関係あるのかよ。それ」
「私、推しが広橋さんでありまして、要は、ファンなんです」
頭を押さえて首を振った。
「あ!そのポーズ、偶然飲み屋でやってた野球中継で見たことあります!やっぱり本人だ!ってことは広橋さんと会ったことはありますよね?どんな人ですか?やっぱり優しくてかわいい人ですよね?ねっ、ねっ!」
「あのな。お前みたいなやつにそんな事を言うわけないだろが」
「……すいません」
「それに、随分夢みたいな見方をしてるみたいだが、人は見かけによらないんだ。それだけ覚えとけばいい」
「それって」
「ああ、だから性格が悪いとか、いいとか、外見だけで判断するだろ。それは危険だってことさ。で、今は俺が今言ったことそのものだ。そう思わないか」
「はあ、解りました」
「だったらいいさ」
「あれ?」
「なんだよ」
「ってことはですよ。元々の服巻さんの中身は、どこに行ったんでしょうかね」
ん。現在の服巻は空中を焦点なく見た。普通に考えれば、入れ替わったとしか思えない。
「俺の中に入った?」
「そうですよ。高峰さんの中に入ってるかもしれない。入ってなかったら、高峰さんってなんなんですか?って話でしょ」
「確かに……」
色んな悪い予感がよぎった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます