最低の肉体

『あ、服巻さん!いかがされました?』

「すまない」

『ええ?』

「おれは服巻というんだな」

『はぁ?はい。そうです。その、さっきの案件のことですか?』


 高峰の入った醜い男は、間を開けて少し考えた、そういう事だとしておかなければこの狼狽した男をますます混乱させるだけだ。自分を落ち着かせるすべは心得ているつもりだった。


「ちょっと話を聞いてほしいんだ。今君にいろいろ問いかけても混乱するだけだから」

『あっ。わかりましたそれじゃしゅぐにお宅に伺って……』

「待て。怒ったりはしないから。大丈夫だ。声が上ずってるし、心配だ」

『え……ありがとうございます』

「これは仕事の電話だよな」

「は、はい」

「今日、仕事じゃないんだよな」

『ええ?……ええ、本当は出勤なのですが、服巻さんは出なくてもいいようになっています』


 不可解すぎる。電話の向こうの男もお互い様だろうが。


「そうか。解った。その話も後でしよう。電話に出てくれてありがとう」

「はあ」


 素っ頓狂な声を上げると、相手は黙った。

「どうした?」

「いや、いつもの服巻さんとちょっと違って……あの、ありがとうございました」

 慌ただしく電話が切れる。


 とにかく、着ぐるみでも着ているような気分だ。不快感が鈍痛のように響いている。相変わらず喉から鼻はたばこの臭いに苛まれ、口の中で舌を回すと奥歯が欠けていた。足の先が痛い。小便をすると水面が粘っこく泡立っている。俺の体じゃない。この男の正体を突き止めたいと思うと同時に、高峰は部屋を観察した。視界には独身男の無造作な部屋が広がっている。そんな他人の生活風景そのものを他人の皮を着た自分が虚ろに見渡す。


 ふと、彼は思った。

 野球だ。

『週刊野球』の最新号から今までのナンバーが、本棚に敷き詰めるように差さっていて、斜めに出っ張っている。広げると高峰修が特集されていて、ロングインタビューが目に入った。


『ええ、ここまで大変な道のりでしたけど、出来る限りアベンジスで活躍したいと思っています。監督には感謝もしていますし、いい新人にも囲まれていると実感があります(笑)』


 よく考えれば、自分が写った出版物など球団に入って最初に活躍した時期以外、記憶にもない。だが我ながら、よくここまでいけしゃあしゃあと言えたものだとよく分からない感慨に浸らされ、その恥の混ざった気持ちを遠ざけたくて、雑誌を本棚に戻した。すると、電気料金支払いの証明紙が床に落ちていた。


 高峰の意識が入った男は目をひん剥くように開いてそれを見る。


『服巻武』。

『埼玉県川尻市』電気料金はおよそ一万円、無事引き落とされたとのことだった。


 服巻……心当たりはなく、思い出せもしない。この時まで、彼はずっと自分がドッキリにでも遭ったか、本当に嫌な夢でも見ているのだろうと思っていた。

 最近はプロ野球選手にまで品のないバラエティの手法を使うようになったのかと考え、頭を掻くと、指が、少ない毛に隠れた明らかにつるりとした頭皮をリアルに触ってしまって、もしかしてと暗澹たる気持ちが襲った。これを誰かに否定してほしくて仕方がなかった。


 その視線の先に掛かっていたしなびたスーツのポケットが、膨らんでいた。手で探るとコガネムシのように膨らんだ茶色い財布を見つけてすぐ手に取り開いてみる。

 健康保険証、そして運転免許証の名前と顔が一致した。四角い大きな顔に大きな口、面積の大きい両頬の上に小さな目がついていた。何だか、嫌にニヤついた面だった。


 名刺を見ると、満面の笑みの男の写真がある。隣には『ヤリミズディーラーズ株式会社』の文字。ヤリミズと言えば日本の大手車メーカーだ。車を売っている会社なのだろう。社会人経験のない自分にはこうしたことがさっぱり分からずコンプレックスを刺激される。もう片方のポケットには、ばさばさに使いこなされた手帳があった。出勤日や会合、仕事のメモなどが書かれている。


 他人と信じたいが、おそらくもはやそうではない部屋を勝手に詮索して、どうやらこの男の食生活は、安いカップラーメンや酒、塩分の高い肴によって相当に壊滅しているだろう事や、掃除が下手である事を突き止めていた。スポーツマンとして全てを計算して生活していた高峰にとっては、こうなってはおしまいだ。  


 全てが悪い見本以外の何物でもない。とにかく、混乱しても仕方がないから、もしどこかに、一部始終を撮ろうとするカメラが回っていてもいいように行動すべきだと本気で思っていた。


 インターホンが鳴って、ボタンを押すと、テレビカメラに映された頬のこけた男は、間髪入れずにお辞儀していた。何も言わずに開錠して彼を部屋に招き入れると、随分急いで来たのか、この寒さの中で汗だくになっていた。


「すいません服巻さん!渋滞などで遅れてしまいまして、急いだんですが」

「中に入ってくれ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る