Ⅱ 転落:傾斜九十度
人生最低の目覚め
『高峰、おめでとう!』
麻元の声に、視界が宙を舞う。
ドームの真ん中で、胴上げされた体が浮いて、幾千幾万の人間が自分を見ている。
夢みたいだ。そう思っていたし、これは夢だとも感じていた。
その時、耳に声が届く。
「せっかく生きてる人生なら、自分自身の手で掴まなきゃ」
顔に水を浴びせられたように、はっと我に返る。
「澪?」
胴上げされている体のまま、彼女を探す。グラウンドの全ての席のどこかに彼女がいて、しかし容赦なく投げ上げられる身体から澪を探せない。
「祝福されたいなら、ふさわしい自分に……」
しかしその声は消えていく。
急に不安になる。どんな勝負でも感じたことのないほどに、その瞬間、高峰の身体は落ちていく。落ちて、スタジアムの地面を抜けて、落ちて、暗闇へと落ちて、終わりなく落ちて、どこまでも落ちていく。
起きた。
ある朝。不可解な夢から醒める。すると、自分がいつもと違うベッドの上にうつぶせになっていると気付いた。体中がしびれている。夢の中で感じた不安も解消しなかった。
その証拠に、内側から鈍い痛みを感じて呼吸ができない。寝違えたのだと思ったが動くこともできない。頭が痛いからだ。どうも偏頭痛だろうか。こめかみから頭蓋骨、痛みが脳へ、そして全身に向かって無理やり伸びるような。だから胸が詰まって呼吸ができない。
ようやく鼻から吸う。
入り込む空気も臭くて、腐った煙草のヤニだ。目を開けるとくすんだ光が入り込み、部屋は灰色に見える。この呼吸も許さないような全身の痛みは、フィットしない靴に擦れた痛みに似ていた。しかしこの痛みは靴というより熱い鉄を押し当てられたと言った方が近い。針で刺すような痛み。背中に食い込んで、思わずうめくような声を上げて、反射的に片手が体をもち上げる。しかし、いつもより、思ったより、体が重い。痛み、這いつくばって、頭も腕も足も軋みを上げている。これは何者かの骨格である。だからか腹が重い。
お腹が出ていた。
みっともないほどにたるんでいた。
それを見た瞬間、死ぬような痛みはさっと引いた。
全身から力が抜ける。昨日の晩より全身の可動域が少ないためにバランスが取れずベッドに突っ伏す。絶対に飲むはずのない粗末で安い酒の、不快な残留を感じている。掌で顔を拭うと、顎のあたりで僅かにある不精ひげに引っかかったざらつき。ようやく起き上がる。まだ心なしか全身がしびれて痛んでいる。
愕然としたまま、本当に口を開けて何も考えられず、うつろに座り込むだけだった。
枕もとの小さいテーブルが震えた。食べかけのカップ焼きそばに、横倒しのチューハイの空き缶の向こうで携帯が鳴っている。ペラペラの生地の布団をはぐって形態を掴み画面を見る。
『折田』と表示されていた。どうしようかと迷って、耳に当てる。
「もしもし、ふ、服巻さん。『休みの日』にすみません」
「何の話だ?」
「この前の会議と別件でどうしても服巻さんにご意見を頂かなくてはならないことがありまして。はいっ、あの、この前のとのトラブルが思ったより火を噴いておりまして……」
「俺の名前は高峰修だ」
「?……あ、はは!それこの前日本シリーズを制した野球選手ですよね!おっもしろ……」
「冗談じゃない。ふざけるな」
「え?」
「一体どういうことだ?」
「うっ、その、あ、後で詳細をまとめて報告しますのでお待ちくださいっ!」
唐突に電話は切れた。相手はどもっていて、普通でないほど緊張しているようだった。
考える間もない。ひとまず、立ち上がらなければと思った。
だが、思ったより力が必要だ。やっと体を持ち上げ、対面の全身鏡に目をやると、一流の野球選手だったはずの彼の身体はなく、全身に重りをまとわせたように太った髪の毛の乏しい中年男が、パンツ一丁で自分の目を見ていた。
顔は……いやらしいことしか考えない野卑な薄ら笑いが似合う顔だった。
自分以外の誰かである。
「なんだ?」
若干汚さの残る部屋に、健康器具やしわのついた雑誌が無造作に置いてある。どこのだれが住んでいるのかも分からない。部屋の中で、今の自分を証明するものはない。
いや、と思い直した。この部屋の所有者は誰だ?というか、俺は誰だ?
とりあえず財布と、スマホを確認したいと思った、他人の物を見るのは気が引けるが、それを気遣う余裕はない。
落ち着け。
そう思い冷蔵庫を開けると、自分が一生飲むこともないと思っていた安いチューハイの缶と炭酸のジュースが転がっている。
ふたの空いている食い物など手を付けられるわけもなかった。開けていない麦茶のボトルを見つけると、すぐに取り出しひねって一口だけ飲み、そして深呼吸した。
先ほど投げたスマホを手に取り、暗証番号を間違う。スマホをベッドに置き、財布を探したが、本人でない以上どこに置いたのかも分からない。マイナンバーカード、住民票とか、身分が分かるそれらしきものを探して、引き出しを開けて見るが、分かりやすい場所に重要な書類が置いてある筈もない。
相変わらずヤニの臭いがする鼻腔であるが、平常心を取り戻してもう一度スマホを持つと、親指の指紋認証に反応してロックが開いた。
『実況!ダイナミッククライマックスベースボール!』
高峰修の顔と目が合った。
いきなり再開した野球スマホゲームの大音量を消して、アプリを消した。何十ものプッシュ通知が電池の%の横にずらりと並んで煩わしいことこの上ない。というより、スマホの中は本当に雑然としていて、重要なものが何も分からず、イライラする。
何とか電話のアプリを起動して『部下』にコールをかける。
救いを求めていた。
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