最高のプロポーズ

 ここ最近はチームメイトから監督といったユニフォームを纏う同族たちに付き合わされて祭りを終えて、後日には球団関係者やスポンサーまであらゆる背広にも付き合わされ、それからも高峰はメディアの取材攻勢を受け続けた。

 その間、彼は感情を殺して笑顔をつくる術を使った。それは澪に教えてもらった厳しい芸能界を生きる戦略であり、スポーツとは言え、上司、同僚、マネージャーといった人間関係からは逃れられないこの職業では必須の愛想だった。野球は、その華々しい実力主義の世界と裏腹に、多くの場合人との付き合いが物を言う生々しい俗世だ。

 そのバランスを崩せるのは、結果を残したカリスマのみ。今の地位に上り詰めるには、人付き合いが苦手であるとか言ってはいられなかった。

 だから、それらが完全に終わって、自分の部屋で、澪と二人だけでワインを開けたときの歓びの方が、全てに勝ったのである。


 人気のない山に囲まれた高速道路から抜けたティガーは、繊細なエンジン音を響かせながらある展望台へと走っていく。

「君がアベンジスのユニフォーム着て、初めて俺にインタビューした時の事、覚えてるか?」

「覚えてるよ。全然話に乗ってくれないし、表情硬い道程君みたいだし。あのミニスカート、ほんと恥ずかしかった。チアガールみたいなやつ」

「緊張したんだよ」

「終わってから知ったよ。何?私嫌われてんのかなって思ったら、三条マネージャーがさ、『澪!高峰君ホントにがちがちに緊張してて、手なんてプルプル震えてて』つってさ、爆笑した」

「やめろよ……」

 それはすでにスタジオのセンターポジションにいた澪が、芸能界で頭角を現し始めていた頃だった。スポーツ番組のインタビュアー役だった澪の、さわやかな笑顔に惹かれたまま、浮足立ってしまう自分を静めて、あくまでクールに振舞ったことを覚えている。

 完璧に、彼女にとって自分が魅力的に映るように背伸びしていた。あの頃は。

「でも早いな。時間が過ぎるってのは」

「ほんとよね。でも今、丁度一区切りって感じかも、人生……」

 そのまま口を閉じた澪に、高峰は言った。

「人生?」

「ああ、ごめん。ちょっとしみじみしちゃって。なんていうかね。そんなつもりはなかったけど、随分今まで、周りに時間を使いすぎたのかもって。考えるの」

 澪の表情が愁いを帯びる。

「……どれだけやっても独りぼっちで、自分の人生歩んだ気がしない時もあった」

 澪が修を見つめた。

 高峰にはその瞬間、急に、澪がどこかへ行ってしまいそうな気がした。

「俺といる時もか?」

「えー?あるかも。私に言わずに勝手にコーヒー頼んだ時とか?」

「分かったよ。もういいだろ最初の時のことは」

 と言った。

 澪はまた微笑んだ。

「だったら一緒になんていないでしょ」

「俺もだ」

 高峰は言葉をつづけた。

「この先ずっとそうさ、選手として舞台に出続ける限りは、傍から見れば誰もがうらやむ野球選手かもしれないが、実際は……急に夢がかなったとしてもやることづくめで実感してられないのさ」

「私も。そういう生き方をしてればいいと思ってたけど、こんな人生信じられる?ほんの十年前なんて、周りの子と少しも変わらない事の方が良かった、そんな女の子だったのに」

「俺は……ティガーを買ったことくらいかな」


 高峰は、アクセルを優しく踏んで、繊細な加速を楽しみながら笑った。この車で澪の気持ちもよくできると思っていた。

「いいだろ、この車」

「車?ああ、そうよね、すごく高いし」

「まあ、ピンと来ないよな、車とか男の趣味だ」

「だって車なんかより修といる時間の方がいいもん」

 澪は微笑む。

 冗談のつもりで、半分本気で、ダメ押しのように台詞を続ける。

「誰かに奪われたくない」

 それは弱音だったが、澪に届いてほしかった。


 澪は頷くと、一言だけ言った。

「修が諦めなきゃ、そうはならない」

 そう、何だかわからない言葉を言ったが、それ以上彼女の言葉を自分の気持ちを働かせずに聞くのは、はばかられた。

 今のこの瞬間が、人生最高の時で。

 あの頃、インタビューを受けていた頃、高峰は駆け出しの無名選手だった。だが、彼の生き急ぐような性格は彼に、人よりも何倍も苦しめる能力を与えた。努力の量と時間の圧縮が叶いはじめた時、そこで彼は、世間が求める彼と、本来の自分との間にギャップがある事を理解した。

 笑顔と気さくさと結果を要求する周囲、それを埋めるための努力に反した瞬間、真逆のヘイトを投げつけてくる人々のために、彼は自分の気持ちを表に出さない方法を身に着けていった。

 彼は再び勝利投手としてその番組のオファーを受け、澪と再会し、仕事をした。

 二人が本当の意味で出会うのはそれからだ。

 というのも、高峰は一八三センチの大柄で、肩が広くスリム、かつ足の長いプロポーションの持ち主であり、それは野球選手特有のやぼったさを感じさせなかったから、メディア露出が多かったのだ。ファッショナブルなスタイルを固く守る高峰は、自分の強みを知っていた。二軍から復活しだすと、自分で見定めた企業のCMにも積極的に出演して、多くのマージンを手にしていた。

 一方で、自分の気持ちを殺すすべを手に入れた澪と、初めて馬が合ったことを理解した日を忘れられなかった。澪と自分は、他のどの人間よりも気が合う。お互いが親密になっていくにつれて、友達が親友となり、親友が恋仲になった。

 隣にいてこの上なく安心することの大切さを彼女が教えてくれた。

「でもいつまでもこのままじゃないだろ?」

 高峰は穏やかに、しかし大きくステアリングを切る。黒いグリップに覆われたシルバーの輪が一周した時、ティガーは駐車場のラインに寸分違わぬ間隔で停車した。

「降りよう」

 日本一の投手とトップ女優が来るとはとても思えない、殺風景な駐車場だ。

「ここは?」

「穴場だ。どんな雑誌にもネットにも載ってない」

 澪は深々とした帽子を被ろうとしたが、高峰はそれを制して先に車から降りると、すぐに反対側に回って澪の側のドアをゆっくりと開けて、澪が立ち上がるまで手を取った。

「俺しか知らない場所さ。他には何もないけど」

 彼女が歩きだすと、高峰は二、三歩先を歩き、その場所に案内して佇んだ。

 時計は五時二十三分。もう、日が落ちる。

 その丘はなだらかで、彼らが普段いる喧騒からは、全く離れた、たおやかな気配に満ちていた。

 高峰はマジックアワーに暮れていく世界の風景を見た。

「こんなきれいな……」

 へー、とか、すっごーいとか、言わなかった。

 澪は正面に八ッ場ケ岳と、うっすらとかかる雲と、まばゆき始めた光の粒のような星々を見つめて、澪は白く長い息を吐いた。

「何で知ってるの?」

「高校の時、遠征試合の帰りにバスがここを通り過ぎたんだ。何だか印象に残っててね」

「坊主だった?」

「ああ、五厘の坊主だったよ。そうさせられたからな。時代遅れの風習に付き合わされて」

「ロマンチックな坊主」

「なんだよそれ。まあ……あの時と今の俺は違うさ」


 貧乏だった。馬鹿にされた。周りからは違う意味で。不名誉な意味で有名だった。

 しかし、今や、彼を笑う者など誰一人としていない。

「だから、今なら君と幸せになれる」

 そう言って彼は、結婚指輪を澪に見せようと、コンパクト型のケースをポケットから出そうとして、言った。

「誰にも邪魔なんてさせない。金にも、境遇にも、運命にもすべて勝った。そんな君に出来ることを考えて、こうしただけの話さ」

 澪は、高峰の瞳をしばらく、陶然と見たまま動かない。

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