最高の彼女

 アクセルを踏むと、ティガーは高峰が乗るにふさわしい挙動で速度を上げて疾走した。

 彼女の名前は広橋澪(ひろはしみお)。

 中学時代、アイドルユニットの T-incline(トゥインクライン)二期生としてオーディションを突破後、同アイドルグループの一時代をつくったセンターとして活躍。その後女優に転身して後はコメディーやシリアスドラマなど果敢に挑戦し、日本アカデミー賞を受賞する名女優となった。当時、業界が予想もしていなかった角度から評価され、売れてしまった澪には、予想外の負担がかかっていたことは確かだ。三十才、芸能活動を十年の節目とするこの最近まで、彼女にはプライベートがなかったのだから。


 高峰との関係も世間に知られていないことは、本当に奇跡としか言いようがない。

「でも……いいのか?このまま仕事を休んでしまって」

「いいのよ、なんていうか、心境の変化ってやつね」

「どういうことだ」

「どういうことでしょー?」

 またこれだ。澪は大事なことをはぐらかして、いつもこうやってボールを渡して様子を見てくる。

「大事なことだろ。ふざけちゃだめだ」

「ふざけてない」

 澪は少し怒った。高峰は息を詰まらせる。

「そんなつもりじゃない、怒らせたら……」

「謝るんじゃなくて想像してよ。すぐに私に言わないでさ」

「……分かったよ」

「うわっ。ふてくされたこの子」

「この子とかいうな」

 この子。この子とか言われた。クソ。ムカつくが分が悪い。

「ふーん、怒るんだ。じゃー教えてあげないから」

「待てよ。分かったよ。考える」


 そこで初めて澪は笑い出した。

「演技だって!もう、本気にとらないでよ」

 と言って見せるのは今日一番の表情だ、まったく転がされている。高峰も気が緩んだ。彼女は女優だ。自分ではない誰かに擬態できる人間の第一人者だと忘れていた。

「わかった。君の本当を信じるよ」


 とまで言って初めて、澪は真剣なまなざしになった。

「一から力をつけたくて。今持ってるものじゃない力をね。演技ができた時がそう思えた。でもそれはきっかけだったんだと思う。『他人になる』のも楽しかったけど」

「君の努力は本物さ」

「そんなんじゃない。人前でしゃべるのも、踊るのも、『見せる』のは私に元々ある力なの。でもそれで上手くいっても、面白くないんじゃないかなって。でも迷ってる。今まで積み上げたものを捨てるっていうのも、何かを軽んじてる気がして」

「ああそういう事か。じゃあ向上心より、開拓心って感じだな」

「開拓心」

 そう言って澪は昼下がりの空を見た。

「ありがとう。そうね。せっかく生きてる人生なら、自分自身の手で掴まなきゃって」

 澪はそう高峰に合わせて言って、落ちていく夕陽を見つめた。

「いいでしょ?」

「そのセリフ、いいな」

「誰のセリフでしょ?」

「君のドラマのセリフだろ、何だっけタイトル……」

「違うよ、ヒーローインタビューの時の修。覚えてないの?」

「ヒーローインタビューなんてな、あれは試合が終わって気の抜けた脳みそで考えるんだ、覚えてない」

「それでもそんなこと言えるんだ、えらい」

 いや、それより。そう高峰は言う。

「君の人生だよ。俺より君にぴったりだ。勝ち取る事が人生の全てなら、俺達はその全てを総取りだ」

「天下なんか取ってないよ。二人とも」

 という澪の顔は、予想外に少し冷めていて、そして力がない。

「君はもっと自分を褒めるべきだ。すごい女優だ」

「そうかな」

「違うのか?」

「アイドル上がりなんてって思うことはあるかな」

「俺だって、大学上がりの野球選手だ。でも……だから一緒だ。そう思うだろ?」

「ありがと」

 澪は笑った。その顔を見て高峰は、自分の口の下手さに迷いながらも、全力で答えようとした甲斐は、少しでもあったはずだと思えた。


「この先どこまで行っても、安らぎなんてない気がした。自分しか見えない世界一なんてって。だから降りることにしたのよ」

「君には気楽になって欲しかった。俺がそうしてもらえたように」

「それがこの関係の秘密ってこと?」

 高峰はその言葉で彼女の言わんとしている事を悟った。

「そうだよつまり……俺の前ではどんな君でもいいから」

「でも見られたくないこともある」

「それも君だし、俺にもある。見せられるのは、君しかいない」


 高峰は澪といる時、自分の感じる以上に安心している自分に気付く。苦心して掴んだ全てに対して、頑なにならなくて済む。それは高峰が勝利の美酒よりも早く彼女の下に帰りたかった理由だ。アベンジスが日本シリーズを制したあの夜を越しても、高峰に二日酔いはなかった。日本中が大注目した試合のトリを飾った投手を周囲が逃がすはずもないことを知っていたから、その夜も要求されることに答えたに過ぎない。だから高峰は、求められる場面以外は酒を控えた。


「お前も少しは人と付き合う顔を知れよ」

 優勝してから訪れたバーで、泥酔した麻元から肩に手を回された高峰は答えを返さなかった。

「これが余所行きの顔だって見抜けるのは貴方くらいですよ」

「本当にいい顔をしてれば、人に付け込まれることもないんだぜ」

 情のある先輩の助言を、頭で理解して高峰は一口だけ最高級の肴を口に入れ、答える。

「酔うのに向いてないんですよ。口に入れるものの味が分かるくらいは平静でないと」

「なんでだ?」

「酔うと体に障るでしょ」

「ああ、てっきりこの後トレーニングでも考えてるんだと思ってたわ」

 ガハハと麻元が笑い、高峰の顔を見て、一瞬素面に戻ったような表情になる。

「ウソだな。面白い奴め。まあ、俺の前だけではそれでいい」

「反吐が出るんですよ。戦って勝つためには皆敵になるしかない」

 高峰はまさしく吐き捨てるように言った。

「緊張感のない関係には落ちたくない」

「そうか?」

「これは俺がキャッチャーだからかも知れんがな。人間全て、底が知れるから上手くいくんだ。そういう気持ちいい付き合いができることは悪いもんじゃない」

「心に暗い部分を持っていない人間は信用できないんです。直感を働かせるにはポジティブであることと言う。麻元さんの言うことはわかりますがね」

 高峰はそうまっすぐ言う。

「その話で行けば、そんなに敵意を振りかざして、活躍なんて出来なさそうだがな」

「具体的な目標を立て、実行し、反省点を踏まえてやり直す。ただそれだけです」

「機械みたいだな、お前」

 高峰は口ごもった。

「ま、正確なピッチング能力の秘密が分かった気がするよ。だが正しさを他人に振りかざすのも、自分の正しくなさを他人に押し付けるのも、根は同じだとは思うがね」

「では、どうすればいいんですか」

「さあな。思った事を俺以外に言わないお前は正解ってことだ

 すっかり顔を近づけて陰険な顔をしている高峰に、麻元はあきれるように笑った。

「まあ、そう俺に詰め寄るなよ」

「他人に弱みを握らせるつもりはないし、それが理由で他人に操られたくもないんですよ」

「それが勝利投手にさせたのか?」

「ええ。何か問題でもありますか」

「張り詰めすぎだ。お前のことが心配だよ。……ま、一度くらいはあっけらかんとしておけ。今日はその為の場なんだから」


 それが出来れば苦労などしない。そう思った。

 麻元の懐の広い言葉に返すこともなく水を飲む。ちなみにこの会話が、彼が穏やかならぬ本当の内心を見せたわずかなワンシーンであった。

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