最高のオフシーズン
透明に輝く朝の光。
風が肌を洗うのを感じて、高峰は目を覚ました。
大柄にも拘らず、羽のように軽い上半身を起こし、壁に面したベッドから白く広い居間を見る。
向かいの大きな窓からは都内を一望できる景色があり、同じ高さのいくつものビルが見える。そんな東京の一等地、3LDKの高層マンションは、トレーニングのためだけに用意した清潔な飾りっ気のない部屋だ。
顔を拭い、CMにも映えると言われた、自信に満ちる自分の顔の彫りを触る。
そのしっとりとした自分の肌が、滑らかである事を確認する。口を開けた。歯は商売道具だ。冷たい水でうがいをすると、喉を気持ちよく吹き抜ける空気を感じて洗面台を出る。半パンとタンクトップに収まっていない鍛え上げられた筋肉は、今日も快調に動いてよく働く身体を立ち上げる。野球選手としての自分が望んだものを全て叶えてしまったその朝に、高峰にはもう一つしなければならないことを残していた。
引き出しから取り出し、机の上に置いた婚約指輪を見て、高峰はゆっくりと深呼吸する。
約束は都内から少し離れた住宅街の入り口に十三時、愛車で乗り付けること。
現在十時。ルーティン化した朝食の玄米と緑黄色野菜と卵を食べ、髭を剃り、いつもと変わらない様子で家を出た。
※
高峰は運転席のシートに深々と座って、軽くアクセルを踏んだ。
愛車のティガーが地面を滑るように加速する。エンジンの快音を聞きつつ、彼はシフトレバーを四に入れる。軽やかな感触を掌に確かめると、ステアリングを握って正面の空を見た。
昼下がりから夕焼けに移り行く陽射しが降り注ぐ。ここは東京から少し離れた地方の山道に線を引く高速道路だ。冬になりたてとなった肌寒い空気を切り裂いて走っていくワインレッドのボディが空気を取り入れ、温かな風となって車内に行きわたる。それは心地いい感覚を高峰にもたらし、車内を快適に包み込んでいる。
景色がセピアに染まり、影の作った場所に車のLEDが作るコンソールの光が浮き出ていた。
「へえ、それじゃあ、最高のオフシーズンってとこね」
隣から、透き通っていて高く弾んだ女性の声がして、高峰は答えた。
「大学時代、試合に勝っても少しのやりがいもなかった。あの時は暇がなかったからな」
胸を張るような気分をすこし声に乗せると、助手席にいる彼女も軽やかに言った。
「今の方が暇だってこと?」
意地悪な顔をして澪が言った。
「違うよ。精神的に余裕ができたってことさ」
「まあね。忙しい時って、自分が生きてることなんて忘れちゃうものよね」
「ああ。CMでよく君を見かけてた頃とかな。今日と明日くらい、無理せず人でいたいもんだ」
今の高峰には、試合やカメラの前で見せるような彼とは別人だった。ただ付き合って三年になる彼女に、少年のような見栄を張って、そして労わっただけだ。
「君もそろそろクランクアップじゃないか?最後のドラマ」
「うん。これで私も一区切りだね。……二人でいる時間も増えるよ」
「仕事は?」
「さあね、どうしよっか?」
と聞いてくる澪に、ずっと正面を向いた修は言った。
「どうしよっかって、俺に聞かれても。地方アイドルから実力派女優に転身して大成功なんて、君くらいのもんだろ」
「さすがに華麗なるキャリア過ぎる?」
うっすらと零れる笑みが、高峰の頬を少しだけ緩ませる。
しかし高峰は踊らされない。
「ファッション誌の雑誌は飾れても、俺は動かないぞ」
天真爛漫にほほ笑む顔は少女のよう、だが真剣に向き合う顔は凛とした大人の女性、玉のような肌、通った鼻筋、透き通った瞳、潤んだ薄い唇……どれも広橋澪を形容する記事の表現だ。
「つまんないの」
しかしここにある澪の表情は、高峰によっては普通の日常で、それがとても特別だった。
「俺たちは、多分泥臭い方さ」
「どういうこと?」
ん、と空を見て、説明できない自分がいた。
澪は何かを分かっているくせに、わざと聞く。
「君のキャリアも、俺の実績もそんなもんだろ」
「えっえっ、よくわかんない、何それ」
と言って澪は高峰を翻弄した。高峰は、困った。
「どんな立派な橋も、泥だらけの作業員が叩いて作るもんだって高校の先生が言ってたんだ」
「その言葉すごい。ホントそういう作業してる人って、すごいと思う。一人で運転してたら頭下げちゃう、私」
「俺の話聞いてたか?」
「聞いてるよ。私たちも苦労してるってことでしょ?」
「そう、そう言いたかった」
「じゃああの道路作ってる人たちと同じだってことよね、お疲れ様です!」
と、澪が指さすと道路を整備している工事員、そして交通整理をするために道路に出て旗を振る人がいる。
自分と澪は、要するに特別だと言いたかったのだが、澪はそう捉えてはいない。優しい人だと思ったが、今の自分からすれば……少し侮辱されたようにも感じてしまう。いけないと知りながら。
「少しスピード上げよう。渋滞しそうだ」
「速度守ってね、球はスピードなきゃだけど」
「ああ、日本の道路じゃティガーをもてあますけどな」
彼女は、どんな人間にも平等に接することができる。
そんな女性だ。
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