選手交代

羽田和平 Kazuhei Wada

Ⅰ 高揚:三百六十度

人生最高の瞬間X(エックス)

 話したことも会ったこともない。

 それなのに、その人の人生が分かるような時がある。


 何気ない表情が、楽しい顔、哀しい顔、怒った顔、嬉しい顔に見えるときがある。

 それは人生で積層した思いがあふれ出ている証拠で、その人にしかない人生を描き出している。


 気付いたのは高校時代で、それ以降はずっとそう考えていた。見ず知らずの他人の人生同士が、ある一点で出会い、そして去る。一つ一つの出会いが感情を揺さぶり、過去が作られ、その積み上がりが凹凸の顔をもった人間の表情を形作り、その生きざまが人生となる。人は見かけによらないというが、実際、目は口ほどに物を言う。


 そんな力を幾度となく感じてきた。

 そして数々の打者を打ち取ってきた。


『アベンジス対ライダース!この闘いを制せば今季日本シリーズの頂点が決まります!現在両軍もつれ込んで延長、試合五対五のまま睨みあい既に十三回表、アベンジスついにスクイズバントから走りに走って一点をもぎ取る事に成功。ツーアウト裏三塁まで進んだライダースこの回一点奪えなければ敗退しアベンジスに優勝を譲る事となります!』


 ブルペンを抜ける暗い通路から、光輝くマウンドが見える。これから自分は、多くの観客の目に晒される。叫び声がこだます五万人を収容するスタジアムは、日が落ちてなお真昼のように照らし出されていた。全盛期に比べてファンが減ったという声は、この男にとっては無縁だ。その会場席は言うに及ばず、テレビ、ラジオ、インターネット……全ての媒体がこの戦いの行方を中継していた。

 入場曲が鳴り、全ての照明が自分に向けば、この試合の行く末を見守る多くの人々の視線がただ一人、自分だけに向く。


『ここで交代したのは最強投手、高峰修!悠悠と手を上げて、ファンに応えております。スタンド席から始まって端の端まで、千両役者の登場に大歓声がこだましておりますこの東京グランディアスタジアム!この回が文字通りファイナル!シーズン最終回となるか?本当にこの男が終わらせてしまうのでしょうか?』

 高峰修。日本を代表する野球チーム、アベンジスのエースだ。

『そんな高峰選手、今年、レギュラーシーズンでは開幕から連勝を重ね九月には月間MVPとなり、クライマックスシリーズでは初の完封勝利。現在、打者四人に十二球無失点で抑えてセーブを挙げています。次を三球で打ち取れば、アベンジスが日本一に、高峰は胴上げ投手となります』


 高峰はマウンドの真ん中で足を止め、バッターボックスを見た。

『二軍落ちという地獄から舞い戻った高峰は顔と実績が違います。広背筋の怪我に襲われたために今回出番は控えめではありましたが、最終兵器としてあと一人打ち取り勝利をもたらせるか。一方ライダース打席に立つのは若きエース、白石奈央です』

 打席に立つ対戦相手、ライダースの白石は高校から引き抜かれた、まだ若い気鋭の選手だ。白石は顎を浅く引くと真っすぐに睨んでくる。その奥にはキャッチャー、ベテランの麻元が見える。ヘルメットの格子の向こうの眼差しはやけに静かだった。

 高峰は仁王立ちのまま手に持ったロジンバッグを足元に置く。


『白石は今季絶好調の成績。特にこのクライマックスシリーズにおいては八面六臂のヒットに次ぐヒットを轟かせてチームに貢献しました。ライダース白石対アベンジス高峰、日本プロ野球の歴史に名を残す大勝負となるか、日本全国が固唾をのんで見守っております』


 高峰が投球姿勢に入ろうとする。キャッチャー麻元がサインを送り、示し合わせた。ストレートのサイン。完封あるのみ。彼の頭の中に、ボールがバットを避けてキャッチャーミットに収まっていく一本の線が見え、足が動き出し、腕が連動し、巨大なばねのようにしなる。

 その時、高峰が腕を縦に振ると、ドンッ!という鈍い音と共に、呆気なくど真ん中直球のストライクを決めた。


『ストライク!今の打球は百五十三キロをマークしています。さすが速いですね』

 バットを振らせることすらなかった。

 白石はマウンドから一歩引きつつゆっくりとバットを振りかぶりながら深呼吸をしていた。彼は明らかな動揺を収めようと努めているように見える。

 その時、風が起こるように、スタジアムにひしめく観客たちが合唱しているのを聞いた。

 あと二つ。その声がリズムを伴って何度もこだまし空気を揺らして高峰に届く。

 キャッチャー麻元からボールを受け取り、高峰は表情一つ変えなかった。変えてはならない。会話する術などなくても、高峰は敵とコミュニケーションを取る方法を知っていたが、自分の心を悟らせることは決してない。

 揺さぶってやれとの、カーブのサインが麻元から発される。高峰が承認する。振りかぶり、腕を下ろすとボールが緩やかな弧(スローカーブ)を描いてキャッチャーミットへ。

 しかし白石はバットを振らない。

 面白いようにスタジアムがどよめき、ざわめきを呼ぶ。

『これはボール球です。両者睨みあう』


 高峰はボールを受け取り、屈みながら様子をうかがった。白石の視線は全くぶれることなくこちらの目に向いている。

 麻元が自分の意図と違うサインを出した時、高峰は首を横に振って拒否した。

 今から投げる球筋は麻元に従う気がない。

 振りかぶる。あの木製のギロチンを避ける投球を。

 投げる。ストライクゾーンギリギリのシンカーが抜け、白石のバットは頭を振ってバン、とミットに収まると、潮のような人々の叫びがスタジアムに響き渡る。

『ツーストライクです。日本の王者、このまま決まってしまうのか?』

 大歓声がスタジアム全体を支配する。あとひとつ。

 周りというより、自分と相手との対話なのだと言い聞かせながら、白石の形相を見る高峰は、帽子のつばを二つ指で僅かにずらした。麻元がこちらに向かい、自分の意図を伝えてくる。


 フォークボール。

 麻元の指示に従うつもりだ。振りかぶり、投げる。

 身体から火花が散ったように思う。背中にひとすじ、痛みを覚えた。

 金属がボールを叩く快音が響く。反射的に宙を舞うボールを見た。が、恐怖するものではない。飛んだボールはバットを掠めてファールとなり、ゆるい山を描いて観客席へと消えて行く。

 無事を確認し、滴る一筋の汗を拭く。俺はまともだ。

 感情など一つも揺れないと言い聞かせて、返ってきたボールを受け取った。

 高峰には、あがいている白石の様子が手に取るようにわかった。

 五投目。

 次もファールボールとなり、会場の熱気は最高潮へと達する。

 その次の打球もバットを掠めて横っ走りのファールボールとなる。

 若いな、白石。そう思った。


「お前になんか一生無理だね」


 高校時代、甲子園の県予選で敗退した二年生の夏。教室では友人関係をつくることができなかった高峰に心なく投げかけられた言葉がよぎる。ボロボロになっていく野球の道具も新しいものに変える事がなかなかできず、みすぼらしい格好だった。なかなか日の目を見ずに、くすぶってしまいそうになる夜もあった。痛いほど知ったその思いを握り締めるように、自分に冷や水を浴びせるためにロジンバッグをもう一度掴んで、足元に置いた。

 白く細い煙が舞う。自分をコントロールする力で辺りの声を、意識から消した。

 自分に闘志を見せつける白石を睨む。高峰は、白石が犬に見えた。この時点で勝敗は決したと確信するのは、白石がすっかり会場に飲まれているためだ。その闘志を沸々と煮えたぎらせたまま白石を睨んだ高峰は、彼の心をこの試合で折ることに決めた。何故なら自分以外に、最も素晴らしいプレーヤーはいないと信じるからだ。  

 それ以外の存在はあってはならないのだ。


 一旦、麻元はストレートを指示したが、高峰はそれを拒否した。覚悟を決め、白石からは見えないグローブの中で、指の関節を曲げたままボールを握る。

 次の球で今シーズンの全ての仕事を終えるには、ストレートでは駄目だ。

 振りかぶり、投げた。不規則に変化するナックルボールが、竹を割ったような音を鳴らすと、ボールは麻元のミットにあった。

 白石のバットは空を切っていた。


 白石が白い四角いバッターボックスの中で崩れ落ちる様子が見えると、高峰から全身の緊張の糸が切れる。彼の視界から白石の姿が消えて空中を仰ぎ見ると、巨大なほど抜けた藍色の空と、それを囲む大観衆の視線が自分に注がれていることを知った。

『ゲームセットです!アベンジス大勝利!日本シリーズが終わりました!高峰が完封!完封です!このシーズンはこの男のためにあるというのかー!』

 高峰は客がひしめくスタジアムのど真ん中で、まばゆくような照明を浴びながら叫んだ。

「おめでとう!高峰!」

 麻元の言葉で、何もかもが達成されたことを知った。

 高峰は、解放された高揚の中で声にならない雄叫びを上げていた。

 このスタジアムの客席のどこかにいる一番の応援者を、その彼女の姿を思わず探した。

 それを走ってきたチームメイトが囲んで、彼の身体を担ぎ上げて胴上げした。

 それは高峰にとって、天と地がひっくり返る日だった。


 夢のような日などそうそうありはしない。だが確かに、ここに生まれた現実は夢などではない。彼女にそれを知らせたくて、宙を舞いながら彼女を探して、しかし取り囲んだ五万人の客の中にその姿はなくて、視界はぶれて、そのうちカメラのフラッシュが焚かれて。


 澪。君はどこにいる?

 周りなんてどうでもよかった。

 君に会いたい。

 君に気持ちを伝えたい。

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