10 エルア・トランサー

 クレインが去ると同時に、とんでもない勢いでドアが開いた。そして隙間を縫うように少女が顔を出す。


 一瞬で目の前まで歩み寄ってきた少女がベレー帽を脱ぐと、濃い紫色の前髪が流れるように腰まで垂れる。くまの出来た蒼い目でこちらを見下ろすと、彼女は大袈裟に含みのある笑みを浮かべた。


「おはよぉ。どう?元気になった?私はこの通り」


 その言葉と共に、彼女は勢いのある逆立ちを見せる。レーナの目はしばし丸くなったが、幾度となく充分だと告げても一向に動じないエルアにとうとう呆れ、顔を真っ赤にしている彼女を無視して話を切り出した。


「はぁ…。まぁ…。それが聞けて良かった。私も元気。んで今日はお願いがあって――」


「あーちょっと待って…戻れない……助けて……」


「うぇ?ちょ、…ッハハハハハハ!!!えぇ…!?あー…わかったわかった」


 唇を噛みながらエルアの体勢を戻そうとするが重さに耐えきれず、彼女の足は大きな破裂音をたてて床に衝突した。


「いっ、だぁ!足が!!」


「ヴッ――いや、ごめんごめん」


「笑わないでよ恥ずかしい」


 エルアは何やらぼやきながらも腰に手を当てて立ち上がると、机に置いたベレー帽を手に取って頭の上へ放った。


「よいしょっと。で、お願いってなに?私、面倒な事はしたくないけど」


「いや」いかにも不貞腐れた表情のエルアに対し、レーナは首を振る。


「そんな大変なことじゃないよ。週に一回、私に徒手を教えてくれるだけでいいから」


「と…トシュ?」


「そ、私ももっと闘えるようになりたいし」


「…ん?」


 こちらの提案にエルアは茫然としているようだった。単に言葉が理解できていないのだろうか、慌てて「素手での闘い方を教えてくれって事」と補足するが、彼女は「分かってるんだけど」と口を尖らせた。


「いいの?君、スキルであんな事できるのに…」


「そうなんだけど。やっぱり貴方かっこよかったから」


「………それだけで?呆れた、私がどれだけ苦労したと思ってんの」


「そういえば、何年くらいここにいるの?」


 ふと気になって問いかけると、エルアは天井を見上げながら指折り数え始めた。


「11?…12?今15歳だから…?っと…わかんないな。まあ10年はここにいるけど」


「10年!どおりであんな人間離れした動きを…」


 昨日エルアが見せた動きは、確かに10年モノと言われて納得できる完成度だった。なるほど自分のような新参者が覚悟無く修めてはならない道を通ってきたようだ…先程の申し出は取り下げるべきか。


「うーん…いや、じゃあ流石に…何年もかけるなら、スキルで戦えるようになりたい、かも」


「だからそう言ってるでしょ」


「言ってた?」


「言ってた」


「…まあいいや。それなら訓練どうしようかな、貴方はどう思う」


「うええ?」その言葉を受けたエルアは肩をすくめ、あからさまにうなだれた。


「私にゃわかんないよ、訓練指導の内容はウェイカーさんが組んでるから。君もそうじゃないの?」


「いや、違う」レーナは驚きつつも平淡に返した。「私は寮住みじゃないし、ここでの訓練も殆どしないから」


「——っ、ああー!!そっかそっか」


 エルアは頷きながら、掌を顔に何度も押し当てる。そしてなんとも懐疑的な目をこちらに向けてきた。


「そうだったね…。そういや、今誰の家に住んでるの?一緒にいたクレインさん?」


「あー」教えてなかったな。


「最初に会ったのがフリーナさんだったから。今はあの人んで寝てる」



「ふぇえ!?」


 一瞬の沈黙の後、エルアは大声と共に飛び上がった。余程の驚きがあったのか、そのままの勢いで椅子に足を引っ掛けよろめいている。


「ひょっ、ホント!?」


「え、まあ」


 オーバーが過ぎる反応に感じたが、向けられる眼差しを見るとエルアが真剣である事を疑う気も起きなかった。理由は分からないが、それほどに意外だったのは確かなのだろう。


「ホント、だけど…驚きすぎじゃない?」レーナは一息つくと、微笑を浮かべながら問いかける。


「いやいや!」こちらの問いかけに対し、エルアは興奮冷めやらぬ表情のまま身を乗り出してきた。


「そりゃあ驚くよ、あの人と住んでるなんて…!え、うらやましー。私も住ませてよ」


「でも殆ど留守番だよ?」


「それでも住みたいなあ。とりあえず、寮はもーヤダ。あそこは就寝時間が早すぎて嫌になる」



 そうは言うが、その目の隈は――。言いかけたところで思い直して口をつぐむ。首を傾げるエルアに「何でもない」と告げると、彼女は訝しむような目をしながら溜め息を漏らした。


「ねえ…今日あたりから、あの人出張でしょ?」


「ん?ああ、そうだね」


「じゃあさ……」


「いや待って」不明瞭ながらエルアの要望を察知したレーナは間髪入れずに遮る。


「まーさかウチに来たいだとか言っちゃう?」


「君の家じゃないでしょ」


「それフリーナさんにも言われたし――はぁ…」


 断ろうか右往左往しているうちにもエルアは輝かせた目をこちらへ近づけてくる。しかしそう安易に決めても良いのだろうか、組織の空気感などてんで分からないレーナがいくら悩もうと答えは出ない。


「…無理でしょう、貴方もそんなことした経験なさそうだし」


「む。けどそんな気にされないよ、大丈夫大丈夫」


「えー…?」


「大丈夫だってば」


「怪しいねえ…」


 そのまま押し通そうとするエルアと不審な視線を送り合っていると、無音の部屋に突如ドアの軋む音が響いた。


「?」2人は揃って意識を傾ける。そして間もなく、活気なく腕を組んだウェイカーがドアの隙から顔を出した。


「何やってんだ?お前ら」


「わわっ」エルアが慄いて後ろへ飛ぶ。


「ど!どうも…」レーナも釣られて苦い笑みを繕う。


「…はぁ………」


 部屋に入り込んだウェイカーは渋い顔のまま咥えていた煙草をつまみ上げると、もの言いたげな目つきでこちらを指差してきた。


「あー……なるほどな。泊まりか?ガキみてえなこと考えやがって」


「ガキですけど」エルアが口を尖らせる。


 ウェイカーは無言になって煙草を口に戻すと、考え込むように顎へ指を押し付けた。


「す、すいません…。聞こえちゃいました?」


 問いかけるが、ウェイカーはまるで聞こえていないかの様に無反応だ。


 そして彼は腕を下ろすと、再びこちら2人に指を向けて口を開く。


「だが…別に俺はどうとも思わん。トランサー、お前が行きたきゃ勝手に行きゃいい」


「おっ!!」エルアは目を輝かせる。しかしウェイカーが「ただし」と遮ると、その表情はすぐさま不貞腐れたものに変わった。


「ただし…これから言う仕事はしてもらう」


「げー。やっぱり」


「仕事?」2人に問いかけようとレーナが口を開くと、ウェイカーは遮るように「そうだ」といった。


「シークは今、戦争への派遣で恐ろしく人員が足りねえ。にも関わらず依頼は増え続けるからな…。暫くは、簡単な任務をお前らに任せようと思う。…あとルイも呼んでおけ。あいつは暫く病欠だしな」


「へ」エルアの顔から色が抜ける。


「へ、へ、へぇーい。ボス。」


「おう」


 力なく机に倒れ込むエルアを一瞥すると、ウェイカーは懐から小切手を取り出してこちらへ投げた。


「そこに書いてある場所に行って依頼主から詳細を聞き出せ。ただ殺すだけの依頼だ、目撃者も無視していいだろう。…間違えないよう読み通せよ」


「ああ、ハイハーイ。了解でーす、ボス」


「…今日はヤケに気分がいいようだな。年下の奴とは会話したくないんじゃなかったのか?」


 去り際に薄気味悪そうな顔でそう問いかけるウェイカーへ、エルアは笑いながら親指を立ててみせる。



「偏見だよ。年とか関係ない…私は、強い人と仲良くなるのだ」

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