08 解除

 エルアの動きを止めるだけで一杯一杯の時間が続き、床に汗が染みてきた頃だった。


「本当に動かないんだね君…つまんないなぁ…みんなも見るの飽きて戻ってったよ?もう寝ていいかな?」


「あ゛…っ?じゃあ闘う?」


「めんどくせぇぞお前ら…動いて殺しあえよ、なんのためにここに来たんだ?」


「でも…私が蹴ったりしていいんですか?」


「あ?何言ってんだお前」


 呆れ顔のウェイカーが椅子から立ち上がってレーナの肩を軽く蹴り飛ばした。意識が傾き、エルアへの束縛が緩む。エルアは待ってましたとばかりに止まっていた拳を一瞬で振り抜き、その手を地面に押し当て強引に側転してレーナに向き直った。


(こんなのと徒手で闘えるわけないじゃん…)レーナは急いで距離を取るが、背中の冷や汗は抑える事ができない。ウェイカーからの厳かな視線も相まって、嫌な緊張感が体中を巡っていた。


 エルアの方はというと、暫く拘束されたせいか両肩をぶん回していた。ズレた帽子から紫がかった長髪を垂らし、こちらへ向ける目つきを更に鋭くしたように見える。


「本気出さないで欲しい…危ないから」


 忠告すると、エルアは腰を異様に落として歯をむき出した。いかにも獰猛な孤児であることを象徴するような動きだ。レーナはそれ以上なにも言えず、渋々右手を突き出す。


 しかし目を凝らすと、エルアの構えはなんだかためらいがちに見えた。手の甲には腱が浮き、怒りを抑えているかのような面持ちだ。


「…私は殴り合いがしたい。無理か?さっきみたいな事してたら…怒られる」


 小声でそう言ったエルアは、隣で数人の訓練生に指示を投げているウェイカーを顎で示す。確かに先程の彼の声には明瞭な怒気が混ざっていた…なるほど、まだ顔にあどけなさのあるエルアが危機を感じるのも自然だろう。


「じゃあ…手を抜いてくれれば」


「それは駄目」


 ならどうすればいい?ずっと2人で睨み合っていろと?生憎だが俺は血まみれで帰りたくはないし、こちらから攻撃して君を骨折なりさせることも御免だぞ。


「くっ…。勘弁して。本気で殴るつもり!?」


「あ?そうだよォ!?」


「そう、か…。えぇ…」


「私は強くなりたいんだ!行くよ!」


(そういうことか――)レーナは理解し、肩を落とした。この子はウェイカーの怒りを鎮めたいだけでなく、強力なスキルを持つ自分と闘うことで何かを学びたいのだろう。


「そっか。じゃ、しょうがないね――アナタに会ったのは今日が初めてだけど…胸を借りさせて頂こうか」


「…む、はああっ!!」



 ――その瞬間に放たれた蹴りは心なしか、先程より軽く感じられた。受けた前腕にも痛みはさほど感じない。まるで…いや?…軽いのではない、これは?


「……?」


「…シュッ!!!」


「!??ガあぁぁ!!??」


 その時、エルアの足に突如力が込められたのか、胸に感じる圧力が異様に跳ね上がった。あまりの馬鹿力に耐えることが出来ず、レーナの視界が凄まじい速度で1回転する。


「痛っだだ!ちょ!?ちょ!?くっそ!!」


「おい待て!」


 そこからのレーナは、4足歩行で逃げ惑うただの惨めな子供であった。しかし逃げ切れる訳もなく、5秒も持たずに部屋の隅まで押し込まれてしまった。


「情けないな…!そんな事して――」


「上がれェ!!」


 飛んで来るエルアの足先を受け止めながら、死に物狂いで命じる。直後、床が落下する感覚と共にレーナの体が天井近くまで浮かび上がった。


 安心を得たつもりだったが、こちらを見上げるエルアは強気な笑みを見せていた。


「残念。逃げられないよ」そう言うと彼女は壁を使って飛び、足を180度に広げて回し蹴りを放つ。


 落ちながら回避しようとしたが間に合わず、レーナは頬を捉えられた。床にうなじから叩きつけられ、痛みで顔が歪む。


「うぐ…いってえ…。受けてらんねえな。…下がれ!」


 スキルを使い、動かない体を無理矢理後方へ吹き飛ばす。慌てて立ち上がって周りを見渡し、エルアを視認するなり腰を引いて、なんとか受けの体勢を取りにいく。


 が、エルアは羽虫のような軽い動きで距離を詰めてきた。対応が追い付かない。


「おっそい!」


 叫びと共に、腹に拳を突き刺される。こちらもうめきながらがむしゃらに左拳を突き出すが、当たる訳がない。それどころかその隙に足をかけられ、バランスを崩した所へもう一発拳が飛んできた。


「ぐううっ!!」


「——もっと攻めてこいっ!!」


 エルアはそう言うとバックステップし、その場に立ち止まってこちらの顔を覗き込む。


「でも、攻めるったって…無理でしょ。うぅ、いってて…」


「…君、スキルもう使えないの?」


「え?そんなことないけど」


「なら――」エルアは呆れたように拳を下ろした。


「かかってこいよ、ホラ。クレインさんもそのつもりで君連れてきたんじゃないの」



「………」そうなのか?まあ確かに今の俺に取り柄と言ったらそれくらいしかないが。


「うぅん…ま、それでは遠慮なく」


 納得はいかないが、恐らくエルアの要望通りに動かなければ埒が明かない…。レーナは溜め息をついて靴を脱ぎ、垂直に投げ上げる。


「君ぃ、何を――」


「左!」


 命じると、靴が宙に浮いたまま左を向いて高速で飛ぶ。想定よりも難なく躱されてしまったが、こちらからまともな攻撃ができたことは少し嬉しかった。


 だが喜んだのも束の間、エルアが壁に跳ね返った靴を蹴り飛ばした。それは視認不可能なスピードまで加速し、レーナの額に直撃する。


「あぎゃあああア!!!??」頭が割れた。いや割れてはいないのだが。少なくとも頭から壁に突っ込み、レーナの意識は光と闇の間で大きく揺れる。


「くっそォ…なん、だ?」


「ごめん、つい」


「いや…いいよ。お互い真面目にやろう」


 そうは言ったが、体力がだいぶ無くなってきた以上続けるのも厳しくなってきた…。先程まで絶え間なく耳を刺激していた子供の掛け声や悲鳴——それが今は驚くほどに聞こえないのだ。


(体感よりギリギリだな…なんで革靴なんて履いてんだよ俺。いってえ…)


 襲い来る痛みに耐え、なんとか頭を押さえて立ち上がると、もう片方の靴も脱ぐ。今はこれしかできない――。


「はァ…っ!飛べ!」


「…よっと!」飛ばした靴がエルアの帽子に掠る。だが彼女は頭を押さえながら涼しい顔で後ろに手を伸ばし、ノールックで靴を掴んでしまった。


「お返し!」そのまま投げ返してくる。「止まれ」でその靴こそ止まったが、その瞬間にはエルアの爪先が目と鼻の先に迫っていた。


「はあッ!」


「ぐううっ!」


 間一髪屈んだものの、頭上から踵落としが飛んで来る気配を非常にハッキリ感じる。レーナは咄嗟に両腕を頭の上で組んだ。


「おお!でも片手でいいよネ!」


 エルアの感嘆の声と共に、落ちてくる筈の足が突如視界の隅に現れて凄まじいスピードで薙いで来る。それは寸分違わずレーナの頬を撃ち抜いた。


「ヴぅうう!!?いぎゃ…クソが――」


 …もうなりふり構っていられない。コイツは今の自分より僅かに背が高い程度のガキだが、素人一人殺すくらい造作もない上に攻撃の加減というものを知らない。


「まっず…。畜生——。と…止まれ!!!」


「またか!?」指されたエルアはガードを固めて身構える。


「足だけね…!」


 全身を止めていては体力が持たないからな――。エルアが激しく藻掻いている内に、レーナは大きな横っ飛びで距離を取る。


「…解除」


「おわっと!?」エルアは唐突に拘束が解けたことでつんのめった。その隙に「飛べ」と叫び、革靴を彼女の横顔目掛けてぶつけにいく。


「うがっ!ぎィ…」


 避けきれず鼻血を飛ばしたエルアは驚いたように膝から崩れ落ちた。


「ラッキー――。飛べ」


 跳ね返った靴が再びエルアを襲うが、彼女は肘を後頭部に回して受け止めた。そしてその勢いで立ち上がり、異様な低姿勢でこちらへ突っ込んでくる。


「やばっ、上が――」


「シュ!」


 エルアの滑り込むような蹴り上げは紙一重で空を切ったが、次の瞬間には意識外の燕返しがこちらの左膝を捉えてくる。


「ぐゎ!?くっそ!!止まれ!!」


 やけくそにも近い感情でエルアの腹に指を押し当て叫ぶ。直後、頭蓋を鈍い衝撃が襲った。


「ッ!!!…うあ………」



 全身から力が抜けていく。殴ってはいけない場所に、岩石が衝突したような感覚だ。それと同時に激しい眠気も感じる。完全に再起不能な状態だ。


「た、たす…」


 寝返りを打ち、エルアの方へ視線を泳がせる。今はドリームによって動きが止まっているのだろうが、俺の意識が無くなってなお攻撃してくるようならマズイ…。その上、ウェイカーや他の訓練生が止めてくれるという保証が全くないのも痛い。


「ぅぐ、たす…け………。え?」


 しかし想像とは裏腹に、エルアは目を見開いてベレー帽を引っ掻き、凄まじい形相で血反吐を吐いていた。こちらを見るなり、彼女は血と涙で顎を濡らしながら「やめて…」と呟いてくる。



「ぁ…ぇ、か…解除——」理解が追い付かないまま、レーナは意識を闇に預けていった。

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