03 殺戮者

(は、腹ァ…減った…)


 ラーザの脳内にそれ以外の思考は無かった。あれから2日間、ろくに水さえ口にせず歩き詰めなのだ。しかも少女の体というのは、想像より遥かに疲労が溜まりやすいらしい。倦怠感と痛みが限界を超え、とうとう足を前に出せなくなった彼——いや、彼女――は、とあるスラム街の中央でうつぶせに倒れた。


「ウっ…があ…水………!!だ、あ…飲ませ…ッ!」


 間違いなく誰かいる筈なのに、助け船は一向に来ない。ここは食いたい奴も食えない貧民街なのだ…当然といえば当然である。しかし頭が回らなくなったせいか、ラーザは無心になって枯れ切った声を周囲へ張り上げ続けた。その言葉は支離滅裂で、自分でも何を言っているのかはもはや分からない。


 だが、その一心不乱さが功を奏したのだろう。数分程めちゃくちゃに叫んだ頃、遠くから少しずつ近づいてくる一つの鈍い足音が地面を伝って聞こえてきた。


「お…おォいおい!キミ、大丈夫か!?」そしてすぐ、足音の主らしき男の大声が耳の奥を叩く。咄嗟にうめき、目を僅かに開くと、その青年はラーザの体を仰向けに転がした。


「君は…?ッ、この区域の人間じゃないだろう…早く帰らなきゃダメだ!」


「……いや、あ…あァ、助け…。水を…ッだ、さ…」


「ぇ…!?」青年も、初めこそ優しく諭すような顔をしてラーザを起こそうとしていたが、腕を伸ばして激しく懇願する彼女の姿を見て違和感に気付いたのだろう。真剣な顔をして即座にラーザを両腕で抱きかかえ、何も言わずに最寄りの酒場へと走っていった。



「…あァ!?こっちだって切り詰めてんだ!金がねえなら、てめえで取ってきてから来い!!」


「そんな…!この子、ほっといたら餓死しちゃいますよ!!!?」


「そう言ったって、腹減った奴に毎回タダ飯食わせる訳にゃいかねえんだ!!悪いが他を当たってくれ!!!」


「な…うッ…。すいません………!」


(もう…4軒目か…)青年の腕の上で朦朧とする意識の中、ラーザは遠ざかる店の看板を一瞥いちべつした。この調子ではいつまで経っても気前のいい店主なぞ現れないだろうに…彼は何をしているんだ。


(クソッ、さっさと金、そうだ、金とってこいよ…?)青年にそう伝えようとするが、とうに限界を迎えていた喉からは擦り切れた音しか出せない。もう無理だ――。そしてそのまま、ラーザの体から次第に意識が抜け落ちていく。


「おい!大丈夫か、しっかりするんだ!もうすぐ何か食べられるから!!」青年は必死の形相をラーザに向ける。目の前にいる少女が死の淵だと思っているのだろう…それもあながち間違いではない。だが2日も寝ていない以上、ここで睡眠をとらないといよいよマズいのだ…。


 肩で息をして、人混みに揉まれながら目を泳がせている青年へ視線で訴えかけるが彼は一向に気付かないまま足を速める。頭が痺れ、意識が途切れ途切れになるものの、絶えず浴びせられる大声の所為で眠りに落ちることもままならない。


 凄まじい吐き気が現れ、最後の力を振り絞ってでも暴れようかとさえ思った時、二人はいきなりじめじめとした無人の裏通りに入った。


(あ………ここ、誰もいねえ。早く、人の多い場所に戻らないと…)ラーザは歯を食いしばりながら青年の顔を見上げる。ずっと走り回って助けを求めている彼なら、すぐ切り返して公道へ戻る…と思った。


 にも関わらず、あろうことか彼は裏通りの道をゆっくりと奥へ進み始めた。一瞬にしてラーザの頭から血の気が引く。なに…なにやってるんだお前。この野郎——。


 この男が何を考えているのか分からない…。流石に我慢が出来なかった。ラーザは迷うことなく、眼前にある土手どてぱら目がけ、力が入りきらない肘を大きく振りかぶる。しかし、その腕が青年を捉えることは無かった。



「!!!!!があああァァァァ!!!!?」唐突に発せられた甲高い悲鳴と共に、鼓膜を突き刺すような銃声が一帯に響く。青年は小さく叫びながら飛び上がり、全身の力が抜けたように膝から崩れ落ちた。支えを失ったラーザも、背中から地面に勢いのまま叩きつけられる。



(だァ!?チクショウ、全身が痛え…この野郎…!ふざけるな…!!!…に、しても…なんだ今の…?いや…。――——ッッッ!!?銃撃!!!??)


 ラーザが状況を理解して跳ね起きた時には、既に青年は慌てふためいて通りへと逃げ出していた。彼の背中を視界の隅に捉えると、沸騰した頭へ更に血が昇る。我を忘れ、怒りと執念に身を任せて立ち上がろうとするが、その刹那に背後で轟いた2発目の銃声によって、ラーザは再三さいさん意識を引き戻された。


(はぁぁ!クソッタレ!誰だ!!!)


 目を細めて振り向くと、そこにいるのは全身に赤黒い服をまとった、銃を構える細身の女性。銃口の向く先には、膝を抱えてびっしりと汗をかいた髭の男が立っていた。ラーザは背中に冷たいものを感じ、慌てて地面に伏せた。一歩間違えればどうなるか分からない――。一瞬にして底なしの恐怖へと沈んでいく。


 しかし、集中した視線をおずおずと彼らに向けると、どうやら2人は道端の少女に気付いていないように見える。燃えるような眼光をお互い一直線にぶつけ、微動だにせず睨み合っていた。


(ッ、なら見つからねえうちに逃げねぇと!どちらかに敵意でも向けられたらすぐに殺される!!)


 すぐさまそう悟ったラーザは口を強く抑え、近くにあったポプラの木の裏へ逃げ込む。そのかん、更に2発の破裂音で耳をつんざかれた。意識が相当削られているが、彼らが去るまではこの場を動かない方がいい…。ラーザは息を潜めて動きを待つ。すると息が落ち着いてきた頃に、裏通りの中央から怒気を纏った会話が聞こえてきた。


「早く所持物を捨てな…死ぬぞお前」


「はは………なるほど、ハハッ!そうはいかねえなあ!てめえンその銃、あと一発しか残ってねえ筈だ…ソレを適当に逸らして、あとは…逃げれば問題ねえ」


「チッ、あらそう…じゃあせいぜい頑張って逃げてね」


「フン、やはり殺し屋ってなァ虚勢を張ンのが上手いみてえだな」



 殺し屋…!?妙に引っかかるワードが頭の中で響き、恐る恐る通りを覗き込む。と、ラーザは確かに背筋が凍り付いたのを感じた。先程まで目先の銃だけに目を留めていた髭面の男がこちらに顔を向けて、自分の目を、直視している。


「はァッ!!!??」冷や汗で額が濡れる。コンマ1秒もかからず奴の死角には入ったが、隠し通せる訳もない。ラーザの腰が抜け、喉が詰まったように息が切れる。


「おい女、俺ァ今誰かと目が合った。そのうち人数に来られてもマズいぞ…。場所を移させてもらう」男の不機嫌そうな声が届いてくる。ラーザは一瞬戸惑ったのち、顔を上げ、目を大きく見開いた。奴の機嫌は悪いようだが、こちらへ干渉せず去ってくれるなら――まさに願ったりだ。



 だが、そうは問屋が卸さないらしい。銃の女はほぼ無音で駆け出すと、一切の躊躇なく最後の弾丸を男の足へ叩き込み大声で「黙れ」とボヤいた。


「お前なんざさっさと殺すに決まってんだろ…」唸り声にも似た叫びを上げる髭面をよそに、彼女は感情のない声で罵り倒す。この場からは見えないが、骨が一度に何十本も破壊されるような大音響が響き始め、男の叫びも一層と強くなっていく。


「お前のようなゴミに…なんで手間かけなきゃいけねえんだ…よォァ!」彼女がそう叫んだところで、男の叫喚が止まった。ラーザは底知れない恐ろしさを覚え、足を引きずりながら地面を這って逃げようとする。


 しかし遠方にいる女から凍るような視線を浴びせられ、動きがぴたりと止まった。地面を引っ搔こうと思っても、全身が押さえ付けられたように固まったままだ。そうしてラーザの小さい心臓がオーバーヒートしている間にも、女は穏やかな足音を立てて歩み寄ってくる。


(はァぁぁぁあ!助け助け助けェェ!!!)大口を開けて息を吐き出すが、喉が痛くなるばかりで声は微塵も出てこない。


 そしていよいよ、次第に大きくなっていた女の足音が止まる。もう真後ろまで来たのか…もはや逃げようもない。ラーザは覚悟ができないまま、寝返りを打つようにして顔を女の方へと向けた。


「…アンタ、ただの子供か?」女は異様に低い声で問うてきた。ラーザは全身を震わせ、壊れた人形のように頭を縦に振る。すると、女の冷たすぎる視線が目と鼻の先まで近づいてきた。


「はぁ…ほォんとか??」眼球を覗き込まれる。懐疑する狼の様な視線を突き付けられる時間は、まさに永遠とも思えた。


「おい、目ェ逸らすんじゃねえよ――」


 機嫌の悪い声に詰められ、どうしようもなくなって擦れた叫びを上げると、女は呆れ顔をして立ち上がった。


「ふーん………はッ、こんな餓鬼に任せるわけないか――」そしてそう言うと、ポケットに手を突っ込んで一歩後ろへ下がる。


 途端に止まっていた息が吐きだされ、激しい動悸と共に戻った冷静さからか、女の姿がよく見えるようになった。


(あ…黒い服、コートだったのか…。まだ銃を隠し持っているとすれば、下手に動けないな。それにしても、怖え…ッ)


「あ?なんだ?腰なんかジロジロ見やがって、とっとと帰れよ」


「ッ――」まずい。さっきから体が固まったままだ…。ダメだ、このままじゃ本当に死ぬ。クソ…ッ!藁にも…!!!


「あ、ヴぁアア…ァ!!!!!」ラーザは覚悟を決めると、全身の力を腹に込めて息を吐く。


「…なに?」女は下を向き、感情のない目を再びこちらに向けた。しかし、その手首には筋が浮かび上がっている。


「ウっ…」


 折角のチャンスだと思った、だが…これ以上声を出すのは不可能だ。ラーザは途方に暮れ、寝そべったままひたすらに腹をさすり始めた。女は暫くそれを眺めていたが、やがて気味悪そうにポケットから右手を出し、それを首筋くびすじに押し付けると、鼻で小さく笑いながら口を開いた。


「はぁ…そういうことか。厚かましいね…やっぱり怪しいなあ、アンタ」そのまま、女は後ろを向いて足を前に出す。完全な諦めがラーザの心を抉った。


(やはり無駄か…)ラーザの顎に力が入る。終わった――。悲しいなあ、もう終わりだなんて。


 緊張が解けて俯せに戻り、少女はゆっくりと虚ろな目を閉じた。しかしその刹那、去り際の女がなにやら思い出したような声色で語りかけてきた。


「………そうだな、まあ、死にかけみたいだし?…口外こうがいしねえなら、ミルクくらいは……飲ませてやるよ」

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