02 少女と異街

 焦げ茶色の地面からゆっくり顔を上げると、扉の先には白い霧が視界全体にかかっていた。前が見えない…思わず息を呑む。


(怖い、怖い怖い怖い――何…これはなんなんだよ)扉から手を離したラーザは暫く立ちすくしていたが、やがて手探りで少しずつ、少しずつ前へと進んでいく。足はすくんでいるが、太ももを強く叩き、強引に前を動かして歩く。既に彼の全身は冷えきり、歯がガタガタと震えていた。


「ッ…ああぁ、早く、助けて、ここから出たい…。俺は――」


 目の前が段々と滲み始め、再び足が止まる。まだ10メートルも歩いていないが、このまま霧に覆われた空間から永久に抜け出せないなんてことも、あるかもしれないのだ…。そう考えると、どうしようもなく不安になった。


(この――心配性は良くねえよ…なんでこんな時に、最悪な事しか………。もっとまともな事を考えろ俺、頼む…)


 再び俯き、両拳に力を込めて目を瞑る。今は…ただ、歩くことしかできないんだ。自分に言い聞かせ、そのまま足を踏み出す。何も考えずにいることで、多少は気が楽になった気がした。


(諦めちゃ駄目だ――この先には、必ず何かがあると思え)ラーザは呼吸を整えながら、できる限りの落ち着いた足取りで再び歩き始めた。



 どれだけ歩いたかも分からなくなってきた頃——ようやく気分が微かに晴れてきた。わざわざ、自分の手で気分を落とすこともないだろう…腕をさすりながら、ラーザはペースを守って歩き続ける。


(ハァ…そろそろ、体も温まってきたかな…。気分も、思ったよりはいいし――なにより冷静だ。よし………!)


 ようやく落ち着いてきたことを感じ取って、少しずつ目を開ける。少し期待してはいたものの、霧の濃さに変化はなかった。


 肩を落としてまた前に進もうとするが、彼はまたある違和感に気付いた。息の根が止まった時には頭に風穴ができ、先程の教会らしき建物を出た時も全身埃ほこりまみれだったはずなのに…自分の肉体は愚か、衣服にさえ一切の傷がない。腰を捻って全身を見回すも訳がわからず、無意識に首が傾いていく。


(どういうこった…?ここはやっぱり、現実じゃないのか?まぁ…現実なワケはないか…と、いうか…俺以外の人間がこの世界に存在する根拠だってないのに――俺が今どうなっているのか、分かる術がある筈もないな………)


 それにしたって、何すればいいかくらいは…誰かに教えてもらいたいよな。すべての行動に意味がないのなら、無限に彷徨さまようよかここで自害した方がマシだ…なんとかしてくれよこの野郎…。


 そしてまた、このままずっと霧から抜け出せないような予感がぶり返してきた。しかしすぐに頭を振って掻き消す。間違いなく…この状況で、冷静さだけは失ってはいけない。


 もはや自虐とおぞましい想像の他することがない状況だが、段々と足は早まり、歩幅が次第に狭くなっていく。疲れも出てきたせいか、最悪の気分にも慣れてきたかもしれない。


「クッソ…」


 ラーザは俯いたまま、せめて霧だけでもかき分けようとぶっきらぼうに両腕を前へつき出した。その時、永久に続くようにも感じられた白霧はくぶの歩みが、突然の終わりを迎える。



 ゴ ン ッ


「!?」


「おい、下ァ向いて歩くな…危ねえだろ?」


「はっ…!」久しく聞いていなかった他人の声に、慌てて顔を上げる。そこに霧は一切なく、目の前には巨大な男が立っていた。そいつはこちらを心配そうに見下ろし、「気ィつけろ」と言い残して小走りで通り去っていく。


「えっ――?」


 驚いて引き留めようとしたのも束の間、男の巨体が視界から消えると、異様な光景が目に飛び込んできた。


 街並みも、人間も、何もかもが巨大な風景。直近に見たものとなんら変わらない、焦げ茶色をした木製の一軒家でさえ、のけぞって見上げなければならない程の高さがある。


 いつのまにやら気温も平常になっており、あまりに度重なる慄きで目眩がしてきそうだった。一体、何がどうなっているんだ?そして、ここは何処なんだ?


(なんだ…どうすれば…?ああ――)目の前を通り過ぎる集団の話し声が、頭の中で響き始める。息を上げて目を逸らし、視線を後ろに向けるが、やはり先程までの霧は完全に見えない。ラーザはよろめき、真っ先に見えた路地へ急いで入って壁に背中を預けた。


「見たこともねえ街だ――なんだここ…?ハァ…ハァ…暑いし、人がでけぇし…俺はどうなって…?」


「えッ?えッ?…いや、でも…あそこ――一面が白い霧の、場所——からは出られた…ん、だよな」状況は全く掴めないが、とりあえずそれだけは間違いないだろう。ラーザは頬を抑え、目を大きく見開く。


「ッ………。はぁぁぁぁ………なんだか分からねえけど、助かったな…!」自分が安堵していられる状況ではないのは薄々感じたが、彼は胸の昂りのままに密かなガッツポーズを取った。



(はぁ、それにしても、こんなに——笑顔になれたのは久しぶりだな…)襲ってくる不安を心の隅におしやり、ゆっくりと笑みをこぼして建物の隙間から青空を見上げると、五感がひときわ研ぎ澄まされた気がした。


 そうして暫く息をひそめていると、路地の奥にある先程の道から2つの低い声が聞こえてきた。気になったラーザは神経を尖らせ、壁の端からひっそりと通りを覗き込む。



「…なあ、今月どうだ」


「どうだ、って…。お前が何を聞きたいかわからないが、まぁ一応食ってはいけそうだよ。仕事が安定してきたところだし…ようやく物価も下がってきただろ?…そっちだって、調子いいんじゃないのか」


「はは、それがさ…この頃、客がめっきり減っちゃって。今の売れ行きのままだと、再来年には潰れちゃいそうなんだ」


「ッ………。そうか、だいぶ厳しいんだな…でも、お前のやってる商売ならそんな時もあるさ」


「おう――。ありがとう…頑張るさ、俺も」



 レンガの割れ目から伸びた雑草を踏み倒しながらゆったりと歩く男たちの声からは、なにやら悲し気な雰囲気が漏れていた。先程の通行人たちの表情にも、僅かながら暗雲が立ち込めていたような気がした。…恐らく、この場所にいては厄介事が多そうだ。どうする…?


 路地の後方へ目を向けるも、行き止まりの壁にはもの寂しく生えたこけしか見えない。どこか身を潜められる場を探すか…。


 男たちの背中を見送ると、ラーザはすり足で路地裏から飛び出た。勢いそのままに誰もいない昼間の公道を駆け抜け、真っ先に見えた十字架へと向かっていく。


(ありゃあ本物の教会か…今一度、こうして見ると綺麗なもんだな。あの美しさを見ると、さっきの墓場みてえな場所が教会だったとは思えない――)息を殺して走りつつ十字架を眺めていると、あの地獄の様な光景が頭に蘇り、背中に悪寒が走る。ラーザは交互に振る腕に力を込め、更に足を速めた。


 しかし力を込めて走り出してから間もなく、想像より遥かに大きい疲労感がラーザを襲う。


「ウッ、ア、ハアアァ…なんだ?速く走れない――いくら何でも、これは…ハアハァ、マズい…。今、俺の体はどうなって…?」


 直線上に協会が見える広い場所へふらつきながら移動したラーザは、民家の壁に手をついて立ち止まった。上がった息が落ち着いた頃、彼は周りを見渡して考えを巡らせる。


(やはりこの街はなにかおかしい…。糞野郎で通ってる俺の姿を見ても、一切反応せずに素通りだ。なのに言語は問題なく通じやがる…?クソッ、どうなってんだ)


 街について知るには、とにかくここの住人にならねえと――こんな人気ひとけのない通りにいても駄目だ…。ラーザは膝を抑えて立ち上がり、太陽に背を向けて再び白い十字架へと向かう。


 体力に気を配って出来る限り小さな動作で教会のそばまで歩み寄ったが、目前もくぜん高楼こうろうにも人間の気配はさっぱり感じられない。うなだれて階段を登り、扉の前で身を乗り出してガラス窓を覗き込んでみたが、やはり誰もいないようだ。


「あァ、留守かよ」ラーザは舌打ちをして扉から離れようとする。しかしふと振り返ると、窓の向こうからこちらを見つめる金髪の少女の姿が薄っすらとあった。


「えッ、な!??」慌てて扉の前まで戻り、手を伸ばしてノックする。気付かなかったことを疑問に思いながらも、ラーザは彼女に向かって必死に呼びかけた。


 だが、少女は何かを訴えかけるような表情をしたまま動かずにいる。ラーザは違和感を感じて一瞬動きを止めた。


 そしてその刹那、あろうことか少女の動きもぴたりと止まった。ラーザの頬を冷たい汗が伝う。窓を凝視すると、全く同じタイミングで少女の顎からもしずくが垂れていた。それを見て、無意識のうちに震える手が顔の高さまで持ち上がるが、ガラスの向こうに現れた掌も同じ様に震えを纏っている。


(は………なんなんだこれ?まさか、いや…でも…。間違いねえ、この窓は――)今、鏡になっている…?つまり、映っている少女は――。


 ラーザの心臓が強く脈打つ。咄嗟に胸を抑えようと左手を持ち上げたが、すぐにハッとして引っ込める。息を呑み、ガラスへ視線を向けたままうなじに手を回すと、以前より大分だいぶ長くなり熱を帯びた髪が、そっと指先に触れるのを感じた。

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