第3話 “怨叉庭” その中へ


その後、日が暮れるまでに央一は都の闇市が並ぶ通りを行き来し“手付金”を用いて身支度を整えた。いざという時の呪符、化生を縛する組紐といった装備から水や乾物などの食糧――とにかく何日かかるかも未知数な任務への準備はなかなか難儀した。そんな中で、唯一表の通りに面した干物を売る商店の中年女が、馴染みの央一に品を渡しながら声をかける。


「顔色が悪いじゃないか」

「そう見えるかい」

「よくないものに憑かれたようなさ」


央一はそれに対し、そうかもしれない、などと言って自虐的な笑みを宿した。


「最近このあたりも物騒になったと聞くから、夜歩きはお気を付けよ」

「ありがとう」


この辺りの、素朴な人々のことを央一は好きだった。御所の近くや、各寮の付近ではどうしても彼は好奇の目にさらされる。しかしこの通りに住まう人々はそうしたことを気にせず央一に接した。


何となしに、央一はこの日の晩から“怨叉庭”へ向かう決意が一瞬揺らいでしまう。

もしもこの任務で死ぬようなことのあれば――当然この善良な人々にはもう会えない。央一は下唇を噛み締め、逡巡しかける内心を掻きくらすように踵をかえした。


何を迷うことがあろう。将軍直々でなかったとはいえ、それでも奉行衆の実力者からの仰せつかりだ。この任務を達成したならまた、うんと報酬をもらえる。必要なことは、それだけだ。


時刻は夕刻に差し掛かろうとしていた。山の向こうに沈んでいく西日に向けて、烏が啼く。央一は人気のない屋敷に一度戻り、買いそろえたもの一式を身に着けると、枕許に供えるように置いた薬箱の中から恩師の手甲を取り出し、装着して、そのまま出立をした。


どうせ引き留めるものもない。身を案ずるものもない。悩むより先に動くことが求められている今、“華ノ寮”の連中さえ近寄らない“怨叉庭”へは少しでも早く脚を踏み入れるのがよい。そのように急く気持ちを押さえられないままに、記憶と感応により道筋を照らし合わせながら央一は“怨叉庭”と呼ばれる土地を目指し、やっと到着した頃には、月が頭の真上に来る真夜中になっていた。


そうして、目の前に見えるようになった風景に、央一は愕然とする。


「……」


都を抜ける際に、幾つかの結界を抜ける心地は確かにあった。現在も、木々の間をじゃらじゃらと呪による防備機構が書き込まれた割符がぶら下げられ、特に太い樹にはしめ縄が巻かれて其処にも厳重に封印の呪符がべたべたと貼られている。


それでも、近づいた際央一は気をしっかりと保たねば眩暈がしそうだった。それほど――漏れ出ている瘴気は濃密でそして、悪意と悲嘆と怨念に満ちていた。


あまりにひどすぎる。央一は口の中で呟いた。夜半であることを度外視しても、林の奥は濃い闇に閉ざされて見えない。耳を欹てると、言葉にならない恨みの声がわいては消えるようだった。此処では、人が死に過ぎている。そして此処は、新たな人死にを求めている。


央一はさすがに身震いを堪えられなかった。引きずり込まれるような眼前の風景に一瞬脚が竦む。しかし、このような局面は弱気を少しでも見せればすぐに“そちら側”に持っていかれることもまた央一は知り得ていた。なので、わざとらしいほど胸を張り、きっと林の奥の闇を睨んでみせた。何を恐れることがあろうか。化生退治や呪詛祓いなどはもう幾度も経験している。このたびは、それの規模が少し大きいだけだ。できないことでない。できないことでは――


「……」


央一は重くなった脚をやっと持ち上げ、割符のぶら下がる組紐を持ち上げて頭を下げ、そこを潜り“内部”へ入った。がらんがらん、と割符が打ちあい、静寂は破られる。そうして央一の両脚は、“怨叉庭”を踏みしめるに至った。


――その瞬間。



「……何ッ」


どろり、と。脚を踏み込んだ地面が融解するような感触に央一の全身は揺らいだ。そしてその足元を見れば、まさに沼に踏み込んだようにずぶずぶと埋まっていってく様子が見える。


「くそッ」


幻に相違ない。胃液のせり上がるような不快感からむせ返るようになりながら、央一は自らの心臓を強く押すようにした。飲まれるな――そう叫ぶように意識へ呼びかけながら、彼はますます強く心臓を押す。すると、更に激しい眩暈が央一を襲った。ひどい船酔いのような感覚に三半規管が打ちのめされる。あまりのことに、央一は一度目を閉じてしまう。


しかし、どうやらこれがよくなかった。次の瞬間に央一が目を開くと、そこは周囲が一切うっ血した皮膚のような色をした不気味な空間になっていた。


「……」


じわりと背中と額に脂汗が滲む。足元は沼に埋まってはいなかったが、引き続き強い吐き気があった。央一は心臓を押さえていた指先で喉を絞めるようにしながらせり上がる胃液をどうにかしようとする。呼吸は自然に荒くなった。それに伴い、心音もばくばくと大袈裟になっていく。


水を、水を飲まねば。そんなことが頭を掠めた。しかしそれよりも先に、ぞわりと央一の全身は怖気立つ。視線を上げると、彼の目の前には十数人の刑死者のような恰好をした男たちの姿があった。銘々、四肢の欠損しているもの、臓腑のはみ出しているもの、顎より上がないもの――そのようなおぞましい姿のそれぞれは、さび付いた得物を手に央一へじりじりと近づいてくる。


しね、おまえも しね くるしめ くるしめ


そのざわめきが央一の耳の中に直接響いた。歪み切ってはいるが真っ直ぐな殺意に、央一は口を結ぶ。


本来ならば、呪詛祓いをするためにもこの土地一体がどれほどの広さであるのか、呪詛はどの程度広まっているのか、感応により見積もりをしなければならない。

しかし今はもはや、そのような場合ではない。広まり切った呪詛が土地そのものの在り方を歪ませ、その上で迷い込んだものを取り込み益々おかしな次元が生まれようとしていっている。


これは、ひどすぎる。また央一は思った。ともあれまずは、この窮地を切り抜けないことにはどうにもならない。彼は手甲を撫でるように指先で触れると、額と心臓に意識を集中させた。


「“火”をもて穿たん――急急如律令!」


そのような言葉とともに央一が指先で空を切るように刑死者の群れを指し示す。するとその直後に、波打つような炎が央一の両脇から這うようにその群れにぶつかり、激しく燃え上がった。


鈍い悲鳴と苦し気なうめき声が続き、刑死者の群れは斃れ、動かなくなっていく。


「……」


肩で息をする央一。消し炭になった刑死者の群れを少し眺めた彼だったが、空気の薄くなっていくような焦燥感に、それを踏み分けて前へ進んだ。


振り返ってみたが、彼自身が通り抜けて来た林も、やかましく鳴り響いた割符も、呪符としめ縄の巻着いた樹々も無い。辺りは不愉快などろりとした、遠近感の狂いそうなおかしな空間。意識を強く、両足を踏みしめねば容易に発狂する――


遠くに聞こえていた耳鳴りが、今や鼓膜が千切れそうな轟音になって央一を襲っていた。この空間は、あらゆる方法で意識を破壊しようとしてきている。正気を保たねば殺される。央一は大きく息を吸っては吐き、吸っては吐きを繰り返した。


「くそッ……」


視界が揺れる。脚が震える。轟音は響いていった先に何も聞こえなくなりつつある。央一は必死で踏ん張ろうとした。意識を持っていかれれば、殺されてしまうだろうと、そう思って、どうにか正気を保とうと深呼吸を繰り返す。


しかし、それを続けていたある一瞬――


「えッらい――しぶとい奴っちゃのう」


「……!」


すぐ背後でそのような気だるげな声がしたかと思いきや、央一の頭部は強い力で殴打され――彼は意識を失った。


昏倒は一瞬だった。あれだけ気をしっかり保とうとしたにも関わらず、央一の目の前は真っ暗になり、今日一日の記憶と、随分昔の記憶とがぐるぐると競り合う風景が見えて来た。実靖の含みのある笑み、華ノ寮の連中の嫌味な声、そして遠くに、恩師の声。


央一はそれを聞きたい思いにかられて手を前へ突き出し、恩師を呼ぼうとした。


「お師匠――!」


必死そうなその自分自身の声で、央一は意識覚醒する。同じ瞬間に、彼はごわりとした筵の心地を背中に感じた。


「……」


意識の途絶える前に感じていた息苦しさはなかった。央一は自身の喉に指を押し当て、脈拍を確認した。生体として、自分自身は生きているか――それは大切な確認だ。しかしどうやら精神も、身体も、まだ健在だ。視界に入るかぎりの周囲を見渡すと、そこは山深い獣道の脇のようで、あの不愉快な色に塗り潰された空間からは脱出のかなったようだった。


央一は大きく息を吐いて全身の緊張を解く。けれどもそれもまた一瞬のことだった。


「悪い夢でも見とったんかいや」


すぐ横から怠そうな声がかけられて、央一はばっと上半身を起こす。するとそこには、ぎょっとするような姿をした何かが胡坐をかいていた。


ひゅっと細い呼吸を呑み込む央一に、その何かは嘴を開いて何か言おうとしたが少し考える素振りを見せた後、ばりばりとその首元を掻きむしるように呟く。


「まぁ、しゃあないわな、そらそうなる」

「……」

「物騒な真似はしたあかんど兄ちゃん」

「あんた……」


手甲に指を当てながらじりじりと後退する央一に、その何かはばさりと翼の生える片腕を伸ばして牽制した。央一はそれでもその体勢を維持して、立ち上がれば六尺以上にもなりそうなその体躯を睨み続ける。


「ヒトの言葉が理解できるのか」

「失礼な奴っちゃのう。当たり前やろがいや」


「あんたのその姿はどう見ても化生のものだろう」

「まあ、そら。せやのう。そら間違いないわ。けどな」


そこまでの遣り取りを契機に、央一は未だふらつく足元を叱咤して立ち上がり引き続き手甲に指先を添えながら一定以上の殺気をもって姿勢を整えた。すると、胡坐をかいていたそれは一層怠そうにしながら、長い爪の生えそろう指先を央一に向ける。


「せやから兄ちゃん」

「化生は喰い合うたびにその姿を交え、自然の中では生まれようのない形になる」


人の化生が喰い合う場合も、人ならざる化生が喰い合う場合も同じだ。央一はそう告げながら、意識を額と心臓に集中させていく。


「あんたの姿は既に変じている。元が人だったのかは知らないが……」

「話の通じん奴っちゃのう」


ごきごきと、太い骨の鳴る音をさせながら、それはのっそりと立ち上がった。やはり六尺を超える身の丈に、央一はつい後ずさりしそうになる。


「兄ちゃん一つ、注意しといたるわ」

「……」


「ワシゃここに入って以来、殆ど真剣な殺し合いしかして来んかった。

 せやからのう、殺さずに済ます具合がようけわからんようなっとる」

「……だったらどうした」


「そのつもりで来いやちゅうことじゃボケが」


四肢を引きちぎられるような鋭い殺気が央一の五臓を貫くようだった。その瞬間、ばさりと大きなつむじ風を立ててそれは両腕、否両翼を広げ真上に飛翔する。それを契機に地面には衝撃波が走って、央一は姿勢がぐらついてしまった。しかし合間を置かず、今度は頭上から渦巻くような広範囲の衝撃が連続する。どん、と大きな音を立てて央一のすぐ横の地面が生えている樹ごとえぐれ飛んだ。


「……!」


まずい。央一がそう感じた時には、既に遅かった。続く形でぶつかってきた衝撃波に、央一の全身は吹き飛ばされる。すんでのところで自身の皮膚の上へ、攻撃のために貯め込んだ気の脈動を走らせ、ぶつかってきた波動やその後地面に叩きつけられることによる致命傷は避けたが、しかしそのようにしても尚、衝撃は大きかった。


地に転がされた央一はあばら骨が折れたのを感じた。気管からせり上がった血の塊を吐き出して、内臓を庇うように背中を丸める。


「ぐ……ッ……」


立ち上がろうとしたが、足の指が折れているようだった。央一は両腕を地に突っ張り、次の衝撃を見極めようと頭を上げる。


「ガキが」


それもまた一瞬のことで、央一の頭部に太い爪と大きな鱗の並ぶ脚が打ち当てられた。首が外れるような強打に、央一は脳が揺れて更に血を吐く。口の中が切れて、鼻腔の中は鉄の匂いに満たされた。央一は視界が霞む心地になりながら、それでもどうにか両腕で這うように身体を支える。ばさばさと派手な音をさせながら、それはまた飛翔して大きく両翼を広げた。


――衝撃波が来る。


朦朧とする意識の中で、央一の生存本能の中核がそう告げた。言葉の通りに、六尺の体躯を持つそれは央一を殺すつもりでいることは明らかだった。央一はすんでのところで唯一動く指先を地面にめり込ませるようにしながら叫んだ。


「“土”をもて護れ――急急如律令!」


その声に応じるように、央一の周囲の地面には八尺ほどの高さになる土壁が顕現する。央一の身体を囲むように隆起したその壁に、激しく衝撃波が打ち付けられた。


「……!」


びりびりと空気が振動した。央一は土壁の中で身体を丸めながら指先に込めた五行の気の流れに集中する。破られるな、破られるな、とそう願いながら。


「ハ……シャバいのう!」


隆起した土壁を叩き潰すべく、翼を更に広げたそれは断続的に衝撃波を撃ち出した。めりめりと音を立てて歪んでいく土壁。そこにはやがて大きなひびが入った。


「――くそッ……!」


全身の気の流れが枯渇する息苦しさと、壁の崩れていく様子に央一は地面を叩くことしかできない。


「終いや兄ちゃん」


ばきばきという激しい音とともに土壁は弾け飛び、圧倒的な衝撃波が央一の身体を吹き飛ばす。身体の痛みはもはや感じなかった。央一の意識は、そこでぶっつりと切れてしまった。


一切の音が消え、光が消え、無音の闇が広がる。央一は深い海底に沈んでいくような意識の中で、脳裏に刻まれた師の声を思い出していた。


“央一。お前はこちらへ来てはいけない”


“私に楽をさせようなどと思わなくていいんだよ央一”


“お前は大学寮で学んで、偉くなりなさい。当世陰陽の術など――縁すべきではない”


懐かしい声だと央一は感じた。尊敬してやまなかった師。みなしごの自分を育て、大学寮に学ばせてくれた師。今はもう、会うことのできなくなってしまった師。


「俺はお師匠の手駒になりたいのです」


まだ幼さの残る央一がそう告げた時、師はひどく悲しそうな顔をした。央一が大学寮を辞め、陰陽寮から枝分かれした除穢衛寮に身を移した時は、更に悲しそうな顔をした。


“都は、御上は、道を違えはじめている”


“私がもしも帰らぬ時は、必ず大学寮に戻りなさい央一。お前は――”


“呪詛にも化生にも、これ以上関わってはいけない”


「なぜですかお師匠、なぜ――」


闇の中で、師の声は遠ざかっていく。央一は無意識に虚空へ手を伸べた。しかし、何を掴めるわけでもない。


「……」


師の声はついに聞こえなくなった。無音の闇の中、央一は伸ばされた自身の手だけをそこに見ていた。しかし、次第に周囲の闇は益々濃くなって、央一の視界は真っ暗闇に染まりきった。

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