第2話




 王宮がある郡は城壁で囲まれている。周辺のいくつかの郡、壁のない農地も含めてひとつの国だ。

 李青流に案内されたのは壁の内側だが、民家もまばらで道もあまり整備されていない、足元で土埃が舞う場所だった。

 護衛二人は見張りのため入口の外側に立った。

 木製の窓は閉じられていて、隙間からわずかに光が漏れているものの暗い。卓明は蝋燭に火を灯してから中に入った。続いて入室した李青流が戸を閉める。室内に家具はなく、埃くさくもない。この用途のために空き家を掃除し整えたのだろう。

「身寄りがない男だ。手を回して、葬儀をあげてから埋葬すると言って引き取った。外の護衛たちにも簡易的な葬儀を行うとだけ説明している」

 蝋燭を手に室内を見回す。外観の大きさからすると、隣に一室のみ。おそらくそこに死体が安置されている。

「早い方がいいのですぐに始めます」

「夜じゃなくてもいいんだな」

「闇があればいいので」

 蝋燭を床に置き、少し離れた場所で白衣に着替えた。再び蝋燭を持ち、隣室へ繋がる戸を開けた。

 独特の臭気が鼻をつく。

 男が一人横たわっていた。

 葬儀に備え汚れのない装束に包まれていたので、着替えさせる手間が省けた。蝋燭を四つ出し、一つずつ火を移して死体を囲うように置く。

 灯用の蝋燭を手に持ち、李青流の姿を探す。入口のところに立っていた。

「どこにいても構いません。ただ、蝋燭の内側には絶対入らないでください」

 客に対するのと同じように説明する。

「わかった」

「魂を呼び戻せる時間は長くはありません。思い出話をするほどの時間はなく、人によってはひとこと、ふたこと、という場合もあります。話しかける内容は決めておいた方がいいでしょう」

 李青流が頷くのが見えた。

 掲げた蝋燭で室内を一周見回して確認する。戸はすべて閉じられている。

「始めます」

 死者の足元に立ち、手に持った蝋燭に息を吹きかけて炎を消した。

 四つの炎に囲まれ照らし出されている死体。

 目を閉じ、人差し指と中指を口元に当てる。

 呼びかける言葉を唱え始める。

 戻ってこいと念じる。

 なんて残酷な言葉だろう。

 戻ってきたところで、すぐに尽きる命なのに。

 室内の温度が急速に下がってきた。白い蒸気のようなものが身体から立ち上ってくる。ゆらゆらと揺れ、ひとつになろうとしていた。

 息を吹き込むように指先を向けた。

 その瞬間、魂が人の形を作った。

「う……、あ……」

 男が喉元からうめき声を上げる。

 時間はあまりない。

 李青流は蝋燭の外側、すぐ近くで片膝をついていた。

「教えてほしい。あなたは自分の店の中で倒れ亡くなっていた。大きな外傷はなかったが蜂に刺された跡があり、事故死と判断された。以前蜂に刺されたことがあると誰かに話したことはあるか」

「……蜂、そう、音がして……」

 羽音を聞き、そして刺された。

 二度刺されると体質によっては命を落とす。

「知っていたのは誰だ」

「大家が、新しい大家が来て……。あ、あ……」

 男の身体が揺れ始める。

 ゆらゆらと。

 もう、残り時間はわずかだ。

「店の大家だけか。ほかにはいないのか」

「俺は……俺は、死んだのか……?」

 李青流は息をのんだ。

 言葉が咄嗟に出てこない。

 そのわずかな時間で、人の形をした塊は大きく揺れて弾けるように消えた。



        ※



 卓明は部屋を出て衣服を着替えた。

 隣室では死体が横たわったままだ。一般的には三日後に棺に入れられ、しかるべきときに埋葬されるが、身寄りも墓もない男なのでこのまま土葬となる。当然勝手に埋めるわけにはいかず、役所への届出が必要だ。蘭蘭に手続きを頼み、指示された場所に運ぶことになる。

「行くぞ」

 李青流に言われ、荷物を布袋に入れながら顔を上げた。

「……って、どこへ?」

 俺の仕事は終わったのでは。

 そう思い、首を傾げる。

「死者が話していた大家のところへ行く」

 勢いよく戸を開け外へと歩き出す。

 急に日差しを浴びたので眩しい。

「ええっ? 俺関係ないよね」

 李青流は問いかけを無視するかのように、歩きながら護衛の一人に声を掛けた。

江紹こうしょうに伝えてくれ。数日前に蜂の毒について尋ね、買い取ったという男の顔を確認してほしいから、養蜂家を連れてきてほしいと。私は中央通りの店の新たな大家に会いに行ってくる」

 護衛は「はっ」と勢いよく答え、全速力で先を行った。

 なりゆきで後をついていく卓明に、振り返りもせず言う。

「大家を問い詰めなければならないが、見てのとおり人手が足りない。多少は動けるようだし、大家が逃げようとしたら戸を閉めるくらいはできるだろ」

「そういう力を貸すとは言ってないんだけどな」

「互いの目的のために協力し合うのではなかったかな。貸しを作れば、何か知りたいときに私の情報網を存分に使える。便利だろう」

 李青流は振り向いて微笑んだ。

 卓明は思わず「んー」と唸る。

 名案なので受け入れそうになるが、巧妙に乗せられている気もする。

 この力を貸すと決めたときも、もしかして乗せられていたのだろうか。

 そう考えると面白くない。

 目の前を早足で進む男の背を追う。

 この男、穏やかで理知的で、高慢ではないように見えたが、とんでもない曲者なのか?

 しかし一度漕ぎ出した舟は簡単には引き返せない。

「俺は武闘派じゃないんだ。戸を閉めるくらいしかしないし、危なくなったら逃げるからな」

「それでいい」

 鮮やかな笑みで返されたので、睨みつけた。



     ※



 中央通りの裏には、酒を飲める店が並んでいた。吊るされた提灯で夜は明るく賑やかになるが、夕暮れ時の今は、老婆が店先に座っていたりと、活気はない。

 看板が出ていない店を李青流は尋ねた。

楚九雲そきゅううんはこちらか」

 扉が開き年配の男が顔を出した。

「いや、しばらく戻らないよ」

「そうか、わかった」

 あっさりと引き下がった。

「いいのか?」

「あまり仕事はせず遊び歩いているという調べはついている。宴会には早いから、ほかだろうな」

 すぐに歩き出し細い裏通りへと入った。

 心当たりがあるのか迷いない。

 宿屋のような建物の前で立ち止まった。二階の窓が開き、若い女性が顔出す。

「あら、すごい上客じゃない」

 その声につられてもう一人窓際に来た。

「ねえ、あなたならお金はいらないわ」

 もちろん視線は李青流の方に向いている。

「私はもう一人の方が素直そうで好みだけど」

「じゃあ、ちょうど良かったじゃない」

 肌の露出が多い服装で身を乗り出すから、目のやり場に困った。

 李青流は何も反応せず戸を叩いた。

 中から女が顔を出した。若くはないが、むしろ程よく熟した色気がある。黒髪は華やかなかんざしでまとめ、裾が広がった深い紫色の服がよく似合っている。

「お二人一緒? それとも別々?」

「いえ、客ではない。楚九雲という男がこちらにいるはずだ。会いたい」

「ここはそういう店じゃないのよ。お客さまのことは話せないし」

「いろいろと理由をつけて、ここを潰すことも私には簡単だ」

 脅しかよ。

 さすが貴族様は違う。

 そう思いつつ卓明は背後で無言で見守る。

 李青流は小袋を女に握らせ、囁いた。

「部屋を教えてくれれば悪いようにはしない」

 袋の中を確認した女は「二階の奥」とぽつりと言った。

 中に入り階段を上がっていく。李青流の後ろに卓明、立派な体躯の護衛が続く。

 突き当たりの部屋の前で止まり、戸を叩いた。返事はない。

 こういう店だ。もしかして真っ最中なのでは。

 妙にそわそわしたが、李青流の方は涼しい表情で戸を開け、部屋に入った。

「入ります」

 もう、入ってるだろ。

「なんだ貴様ら!」

 体格のいい中年の男が寝台から身体を起こす。髭も体毛も濃い。

 両隣にいる女二人は慌てて布団で身体を隠した。揉め事が時折あるのか、大きな悲鳴は上げなかった。

「お取込み中に失礼。最近このあたりの店の大家になって値上げを進めてるのは、あなたですね」

「……そうだが」

 怒鳴り散らしたりはしなかった。李青流を見て、身分の高いものだとすぐ察したのだろう。

「一人の店主が、蜂に刺されて亡くなった。事故ではなく、故意に窓も戸も閉めた狭い店内に蜂を放ったら、どうなるだろう」

「……俺とは関係ない話だな」

「店主は以前蜂に刺されたことを大家に話していた。三日前に彼に値上げを告げに来たとき、窓から蜂が入りそうになり騒いだので知ったとか、だろうか。それは想像だが、あなたが彼の元を訪ねたのは想像ではなく調べはついている」

 楚九雲は唇を噛んだ。

 どう言い逃れをしようかと、考えているのか。

「確かに三日前に家賃の件でいくつかの店を回っている。だがそれだけだ。店主が亡くなったのは二日前だろう。俺なら、そう、ここで楽しんでいたことは女達が証明してくれる」

「店内に蜂を放して外から戸を閉めるのは手下を使ったんだろう。ただ、死に至る蜂を捕まえるのは簡単ではない」

「そ、そうだ。そんな危険なこと、やる側も下手すれば命懸けだ」

「蜂蜜を集める仕事をしている者なら詳しい。蜂を買い取りに来た男達がいると聞いた。顔を確認してもらえばわかるだろう」

 楚九雲が身体を震わせる。

「……俺を、捕らえる気か」

「それは私の仕事ではない。知りたいのはあなたに指示を出している者のことだ。最近、このあたりの土地を買い占めようとする動きがいくつもある。別々に見えるが、上はひとつだろう。その名を知りたい」

「……言って何の得がある」

「言えば見逃してやる。蜂の件は部下が先走ってやったことにすればいい。牢獄に入れられたら、数年後に出られたとしても、もう贅沢な生活はできないだろうな。それとも生かしておいてくれるだけでもありがたいか」

 楚九雲の顔が青ざめていく。

「……わかった。教えよう」

 脱ぎ散らかしていた服を羽織り、男は寝台から下りた。遊女は口が硬いとはいえ、名前を聞かせるわけにはいかないのだろう。

 近づいてきて、李青流の耳元で囁いた。

 少し離れて立っていた卓明には聞こえなかったが、口の動きから、柳亭風、と言っただろうか。

「それ以上はわからん。俺に指示を出してるのはその男だが、上に誰がいるかまでは」

「私が尋ねたということは内密に。それを言えばあなたが痛めつけられるだろうから、当然言わないだろうが」

 楚九雲は小刻みに頷いた。

 廊下を走る音が聞こえてきた。部屋の前に止まり戸を叩く。

「大変です! 役人が店にやってきて、蜂の件で調べがついたと――」

 戸の前にいた護衛に李青流が目配せする。護衛が戸を開けると、勢い余った男が三人倒れ込んだ。

 顔を上げた男の頬に傷がある。

「あ」と、男と卓明が同時に顔を上げた。

 通りで女に絡んでいた三人組だ。一人の男は室内の異様な光景を見て、慌てて部屋を飛び出した。護衛が後を追う。

 傷の男も転げるように部屋を出ていく。李青流は残る一人を捕らえようとしていた。

 これは、傷の男を追いかけなければならないやつでは?

 躊躇している時間はない。卓明は部屋を飛び出した。廊下の先に男の背中がある。こちらに向かって歩いていた遊女が男とぶつかり、悲鳴をあげて壁まで弾き飛ばされた。

 突き当たりにある階段を男が降りていく。

 卓明は女性に駆け寄った。

「大丈夫?」

 頷く様子からして怪我はなさそうだ。起こしてやる時間はない。

「ごめんね!」

 階段を駆け下りる。廊下の先、男はもうすぐ入口に辿り着こうとしていた。

 逃してしまう。

 手に持っていた布袋を、思いっきり投げつけた。

 首元に激しく当たり、男がよろめいて膝をつく。

 ゆっくりと立ち上がり振り向いた。

「……てめぇ」

 男は上衣の中に隠し持っていた小型の刃物を出した。

 ええっ?

 三歩先の距離で卓明は足を止めた。

 扉を閉めるか逃げるかだけのつもりが、どうしてこんなことになったのか。

 どう考えても、もう逃げるしかない。

 引き返して階段を駆け上がるか?

 考えている間に、男が飛びかかってきて刃物を振り回した。

「ちょっ……」

 しゃがみ込んだ頭上を刃物が通過する。

 立ち上がるとまた、刃物が振るわれた。

 右に左に、避けながら後退する。階段まで来たが、背中を向けて上れるわけがない。

「うわっ」

 よろけて階段に座り込むように尻をつく。

 終わりか――?

 刃物が振り下ろされた瞬間、卓明は男の股間を思い切り蹴った。悲鳴が上がると同時に、上から何かが刃物に投げつけられ、男の手から遠くへと飛ばされた。

 背後を見上げると、李青流が階段の上から見下ろしていた。

「大丈夫か」

 階下の男は股間を抱えながら倒れ込んでいる。少し離れた場所に刃物と銀色の髪飾りが転がっていた。

 視線を李青流へと戻し、軽く睨みつける。

「大丈夫か、じゃねーよ……」

 少し間違えれば昇天していた。

 外から足音が聞こえてきた。かなりの人数だ。扉が開く音がして、役人たちがなだれ込む。一人の役人が李青流の姿に気づき、両手を胸の前で重ねて礼をする。

「男三人の顔は養蜂家によって確認がとれました。これから連行します」

 李青流は階段を下りながら、よく通る声で告げた。

「ご苦労だった」

「楚九雲は上にいるのでしょうか」

「話を聞いていたところだ。店主が亡くなった時間もここにいたし、蜂の件は手下が独断で行ったようだ」

「手下のもう一人は上に?」

「そうだ。あとは頼んだ」

 頷いた役人と数名が階段を駆け上がっていった。股間を押さえていた男も連れられていく。外では既に一人、護衛が追った男が捕まっていた。

 卓明は階段に座り込んだまま、深いため息をついた。

 頭上から李青流の声がする。

「協力してくれて助かった。礼を言う」

「礼だけじゃ済まないだろ。俺は葬送で体力使いきってるんだよ。なんでこんな……」

 思えば朝からひどい一日だった。

 命を預けるというより、命を削っているようなものだ。

 こんなんで、この先やっていけるのだろうか。

「動けないなら手を貸そうか」

 目の前に手が差し出される。手を握り、立ち上がった。

「本当に、あの大家見逃すんだな。悪そうなやつなのにいいのか?」

「正義で動いてるわけじゃないからな。今日の貸しは返すから、必要ならいつでも呼べばいい」

「こき使いまくってやる」

「どうぞ」

 優雅な笑みで返されて、苦笑する。

 三人の男達が連れられていく。夕暮れで空は赤く染まっていた。



     ※



 翌日、李青流は再び葬送屋を訪ねてきた。昨日の仕事の契約書に署名するためだ。

 蘭蘭はお茶を出し、にこにこと微笑みながら声をかけた。

「代理の方でも構わなかったのですけど、わざわざ足を運んでいただきありがとうございます」

 金払いがいい客をつかめたから上機嫌なのだろう。

 所長も声を掛ける。

「これからもご依頼をいただけるとか。ありがとうございます。確かに事件や事故にあわれた身寄りのない方の葬儀は蔑ろにされることも多かったですからね。我々で丁重に見送りたいと思います」

 李青流は書類から顔を上げ、微笑んだ。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

「そうだ、母が作った菓子があるんです。貴族様のお口に合うかわからないですが、よければ召し上がってください」

 蘭蘭はいそいそと部屋を出て行った。作り立てをつまみ食いするためにか、所長も後に続く。

 部屋に二人きりになった。円卓を挟んで向かい合っている。

「これでいいだろうか」

 卓明は差し出された書類を受け取り、目を通しながら話した。

「……この前みたいのはナシな。命預けるようなものとは言ったけど、物理的な話じゃねーから。俺は丸腰だし葬送で心身削ってるんだ」

「今後も引き受けてくれるのか」

 卓明は李青流の方を見た。

「断られると思ったのか」

「少しだけ」

 その割には、随分と強引に付き合わされた気がするが。

「貸しがたっぷりあるからな」

 使わずに終わるのは働き損だ。

「先は長そうだ。よろしく頼む、卓明」

 優雅な笑み。

 この先も、これに丸め込まれていくのだろうか。

「……えーと」

「青流でいい。対等な関係と言うのなら、そう呼んでくれ」

 本当はとても名前で呼べるような身分ではないけれど。

「よろしく、青流」

 隣室から蘭蘭が勢いよく入ってきた。

「どうぞ! たくさんあるので遠慮なく」

 器の上には粟の粉を練った餅が山ほどあり、甘く味つけて煮潰した豆が添えられている。卓明はさっそく手を伸ばし、餅で豆をすくって食べた。李青流も真似して食べる。

「初めて食べるが……美味しいな」

 声を交わす機会などなかったかもしれない二人が、卓を挟んで餅を食べている。

 不思議な光景。

 だけど、まだ先は長そうだ。

 

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