第3話

 雪勿は眠ることが好きではなかった。夢が彼女を苦しめるからだ。

 体がひどく重い。まるで血の代わりに鉛でも通っているんじゃないかと思うほどに、夢の中の雪勿の体はいつも地に沈むように重かった。

 次の瞬間周りを炎に囲まれる。近付いてくる赤い炎から逃げたくて、でも逃げられない。呼吸する度に、骨が腐った木板のように軋んだ。

 頭の中は感情がぐちゃぐちゃに混ざり合いながら摩擦を起こす。外からも内からも壊される。


 重い……熱い……痛い……。

 熱い、痛い…痛い…痛い………………。

 ………ああ…焼けていく。


 今までの思い出、何もかも…黒い炭になっていく…。

 壊された。

 壊された。

 大切な人たち…。

 大好き。

 大好きな人たち。

 壊された。壊された壊された。

 壊された……!

 許さない…許さない……。

 わたしの…大好きな……。

 許さない、許さない…大切な人たちを…どうして…許さない許さない…………。


 体の中で、何かが割れる音がした。


「……はぁっ…!」


 目を覚ました時には、雪勿は肩で息をしながら、涙を流していた。時刻は午前の二時をさしている。

 今日、いやもう昨日のことだ。洗濯したばかりの寝間着は、季節外れとも言えるほど大量の汗を吸い込み、肌に張り付いて気持ちが悪い。またこの夢かと、雪勿は額の汗をぞんざいに拭った。

 上下する肩を何とか落ち着かせながら、思い出すのは別れ際の紫蒼のあの言葉だ。

 雪降り積もる翌日。雪勿は旧生徒会室のドアを叩いた。しばらくして、どうぞという声が返ってきた。紫蒼の声だ。


「こんにちは。来てくれないかと思った。昨日怒らせたみたいだったから」


 中へ入ると紫蒼が手前のソファの背もたれからひょっこり顔を出して、雪勿を出迎えた。相変わらず制服が不似合いな男だと雪勿は思った。


「今日はお弁当持ってないんだね」

「はい、食欲が、なくて」


 雪勿は俯いてそうこぼした。声に覇気がない。紫蒼は憐れむように雪勿に手を伸ばした。


「……そう。ほら、そんなところに立ってないで、こっちにおいで」


 紫蒼に誘われるまま、雪勿は彼と向かい合うソファに座った。座るなり目の前で小さくため息をつく雪勿に、紫蒼は気遣う視線を向けた。昨日と今日で雪勿の様子がだいぶ違うように、紫蒼には思われた。


「何か気掛かりなことがあるようだね」


 紫蒼のダークチェリー色の双眸が、雪勿の顔をじっと見つめている。


「……どうしてそう思うんですか?昨日だって…」

「どうしてって、だってすごいよ」


 隈、と自分の目元を指して言う紫蒼。雪勿は恥ずかしそうにふいと顔を逸らした。


「その隈の理由は慢性的な睡眠不足かな。それとも最近は特別疲れていて、元気がないとか」


 紫蒼の声は終始とても穏やかだった。

 雪勿は紫蒼をチラチラと見やり、困窮気味に口を開く。


「あの、わたし……」


 ゆっくりでいいよと、紫蒼は青い顔の雪勿を落ち着かせようとそう言った。雪勿は小さく深呼吸をしてから、ぽつりと話し始めた。緊張しているようだ。


「あなたの言ったとおりです。最近ずっと眠れてないんです。毎日同じ夢を見て」

「夢?」


紫蒼が目を細めて、何かを見定めている眼差しを雪勿に向けた。


「この学校の、寮に越してきてから…違う、もうずっと前から……?周りを炎に囲まれて、逃げなきゃいけないのに体が動かなくて、熱くて、痛くて、あとすごく悲しくて、誰かをとても憎く思いながら、わたしはいつも目が覚めるんです」

「可哀想に。夢が眠りを妨げるなんて」

「その夢のせいで…眠るのが怖くなっちゃって…もう何日も…まともに……」


 あれ、と思った時には瞼が閉じかけていた。


「雪勿?」

「今日も、その夢で飛び起きて……そしたらその時に…あなたが昨日、別れ際に言ってたこと…を、思い…だして……」


雪勿の体が前に後ろに揺れ始める。紫蒼は訝しんだ。


「雪勿?どうしたの?」

「でも、なんでだろ……あなたのことは、苦手な……はず…なのに……」


 足が勝手に……と言葉を尻すぼみにしながら、雪勿の体はソファの上に倒れた。


「雪勿!?雪勿しっかり!」


 気持ちがいい。暖かくてふわふわする。この感覚を、人は何と言うのだったか。

 雪勿、雪勿と紫蒼が呼んでいる。そんなに何度も呼ばなくても、ちゃんと聞こえているのに。そう伝えたくても、もう唇がうまく動いてくれない。

 雪勿は本能に抗うこともなく、そのまま意識を手放した。


「雪勿!」


 紫蒼はソファから身を乗り出し、倒れた雪勿を体で受け止めた。彼女を仰向けにさせて顔を隠す白くまっすぐに伸びた髪をそっと避け、様子を伺う。息はある。脈も正常。熱もない。近づいてみると雪勿は静かに寝息をたてていた。雪勿は繰り返し見る悪夢に悩まされていると言っていた。何日も寝不足が続いたため、体が限界を迎えたのだろう。眠っただけかと安堵した紫蒼は、大きく息を吐いた。


「こんなになるまで……辛かったね」


 頭をそっと撫でると、雪勿は小さく唸った。眠っているはずなのだが、全身に強ばったような力が入っている。


「何かが意図的にこの子を苦しめているというのなら」


 許せないね、と呟く紫蒼がぐっと目頭に力を入れた、その直後。

 ガタンッ、という音がして、部屋の明かりが落ちた。ブレーカーが落ちたわけではない。そもそもここには電気など、のだから。

 紫蒼は咄嗟に、眠る雪勿を抱き寄せた。

 紫蒼の視線の先で、ガタガタと揺れはじめた旧生徒会室と廊下を繋ぐ廃れた引き戸。それがひとりでに、ゆっくりと開いていった。


「やぁ。待っていたよ」

 


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