第2話

「名前はシキ。紫に蒼で紫蒼」


 紫蒼って呼んで、と男は言った。


「先輩…ですか?」

「どう思う?」

「……後輩には見えません」


 雪勿が言い切ると、紫蒼はあはははっと笑った。今の会話のどこに笑う要素があったのか。眉根を寄せる雪勿を、紫蒼はソファへ促した。

「そんなに怯えないで。何もしやしない」

「手も足も使わずにドアを動かした人のいう言葉じゃないです、それ」

「そうかな」

「……あなたは、幽霊なんですか?」

「そうだよ」


 雪勿は目を見開く。予想外の答えが返ってきたからだ。


「ほ、ほんとに?」

「確かめる?」


 どうやってと訊ねる雪勿の目の前に、紫蒼は手のひらを差し出した。怪訝な顔をする雪勿に、紫蒼は微笑を返す。触れろという事なのか。雪勿はしばらく彼の手を見つめたあと、戦々恐々とした面持ちで自分の手をそれと重ねた。

 ふたりの手は間違いなく、ふたりの目の前で重なった。幽霊ならば実態が無く、触れたくても触れられないものだと思っていたのだが、彼の手のひらからは体温すら感じられた。


「……からかったんですね」

「うん。ごめんね」


 紫蒼はそこに悪気など微塵も感じていないというような、満面の笑みでそう言い放った。両手をひらひらと顔の横に挙げているその行為が、雪勿の怒りを煽った。


「失礼します」

「待って待って」


 紫蒼は部屋を出ていこうとする雪勿の腕を掴んだ。


「ごめんね。気を悪くさせたのなら謝る。怖がらせたよね。ごめんね」

「怖がってなんていません!なんですか。なんなんですかあなた。人のことからかって楽しいですか」

「今のはからかったわけじゃ」

「もういいです。離してください」


 雪勿は紫蒼の手を乱暴に振り払うと、隅のパイプ椅子に腰掛ける。なんとなくあのドアに触りたくなかった。苦渋の選択だ。

 弁当の包みを開けると不意にパチンという音がして、暗かった部屋が蛍光灯の光に包まれた。


「手元が見えないと不便でしょう。カーテンさえ開けなければ見つからないよ」

 雪勿はそれには答えなかった。

 明かりがあると部屋の様子がよく見えた。

 広さは八畳くらいだろうか。プラスチックのパーテーションがこの部屋を真ん中で二つに仕切っている。入ってすぐのところに二人がけの黒いソファが、ローテーブルを挟んで一脚ずつ、パーテーションの奥はダンボール箱や書類が床の上に乱雑に積み上げられ、物置のような空間になっていた。出入口の引き戸は塗装が剥がれかけて、木の色が見えてしまっていた。

 雪勿が一通り部屋を見回しているとまた、ねぇと声がかかった。


「こっちで食べない?ほら、テーブルもあるし」


 ソファに座った紫蒼は、足の短い木目調のテーブルを細い人差し指で小突き、雪勿を誘う。


「……別に。ここでいいです」

「そんなつれないこと言わないの。ほら」


 雪勿は渋々といった表情で立ち上がり、紫蒼に促されるまま彼の向かい側のソファに腰を下ろした。紫蒼は熟れたダークチェリーのような黒い瞳を細めて、満足げに頷いていた。


「名前、教えてほしい。貴女をちゃんと名前で呼びたい」


 この学校の人は、初対面の相手にどうしてそんなに構いたがるのか。ひとりになれる場所と時間が欲しくてこんなところまで来たというのに、これでは教室と変わらない。


「…セツナです。字は雪に勿忘草の勿」

「雪勿…」


 紫蒼は何度か噛み締めるように、雪勿雪勿と呟いた。

 今日の昼ご飯は白飯に昨日の夕飯の残り物と、だし巻き玉子、トマト、茹でたブロッコリー。さっさと食べてしまおう、そして早く部屋を出よう。教室にはまだ戻りたくないから、昼休みが終わるまではどこかで暇をつぶして…。

 そんなことを考えて、雪勿は口に卵焼きを放り込む。見た目は上出来だったが、今日のは味も焼き具合も申し分なかった。休みもなく食べ続け、雪勿は空になった弁当箱を片付ける。

もう少しゆっくりしていけばいいのに、という紫蒼の言葉は聞こえない振りをした。

 雪勿はドアの前に立ち、一瞬躊躇ってから引いた。ドアの引手は錆び付いて、触れるとザラザラしていた。先程は勝手に閉まったが、開けるのは手動のようだ。いや、普通学校の教室のドアというものは手動のはずなのだが。


「では、さようなら」

「雪勿」

「……なんですか」


 振り返らずに答えた雪勿は、だが継がれた言葉にその灰色の目を見開いた。


「眠れないのなら、俺のところにおいで。いつでもここで待っているから」


 微笑む紫蒼の瞳は、閉まるドアの隙間で美麗に笑っている。


「どうして…」


(どうしてあの人、私が不眠症なの知ってるんだろう)

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