第61 -潤一23

『おはようございます』


『…ああ』



 カーテンから覗く光は鈍く少量で、シーツで繋がったままの境界は、ひどく曖昧だった。


 三日前の夜から続く雨は、ようやく泣き止んだのか、未だ薄暗い曇天に覆われたままで、天と地の間を霧雨が煙らせていた。



『なんだか照れますね…』



 漆間未那未は、そういう雰囲気を出そうとしたのか、言葉と裏腹にまったく照れていなかった。


 無表情でよくそんなことを言えるな。



『…悪かったな…好きでもない男と…』


『そんなことないです。好きだったので』


『…嘘つけ』



 今まで綾香との仲を、事あるごとに邪魔していたのは、そういう事だったのかと思わなくはないが、お前彼氏居ただろうが。

 


『虚偽ですよ。そんなのわかったでしょう? ふふ。でもやっぱり勝てそうにないですね…』


『お前な……何に勝つって?』



 綾香のことだろうが、こいつの勝ち負けが俺と同じ表象、概念を持っているのかつい気になってしまう。



『繋がるとですね、わかるんです。絶対に負ける人生ゲームに付き合わされてる気分ですよ…』


『その物言い懐かしいな…というかいつもいつも訳の分からん話するんじゃねーよ…いいから説明しろ…あ、おい!』



 潜るな! 何握ってやがる!



『ちゃんと責任とるから話を聞け!』


『んちゅ、ふふ、そんなの要りません。無責任で結構です。ちゅ、ちゅっ』


『な、なんでだよ』



 布団の隙間から未那未は怪しく微笑んで舌を伸ばした。


 

『形而下の、ン、つまり身体なんて本当は要らないんです。ふふ、これ、大変宜しかったんですけど。本当に欲しいのは──』


『オカルトはやめろって言っただろ』





 この三日三晩、海の中で溶け合い、地の底で響かせ合い、空の果てで抱きしめ合っていた。


 だがそこは果てではなく、堕ちていくようにして、遂には宇宙まで飛んでいた。


 丸い丸い地球の上でくるくると無重力を揺蕩いながら踊る二人のBGMはカノンだった。


 嘘でも比喩でもなく、そんな体感が俺の五感を捉えていた。


 魔術で脳をかき混ぜ合うと言えばいいのか、そんな激しいセックスは、いや、あれがそうなのかは判断出来ないくらい、体力も気力も根こそぎ消費し、さりとて終わりは見えなかった。


 地球はいつの間にか小さくなり、水晶のように鈍い半透明になっていて、俺達を閉じ込めていた。


 ガラスに覆われたスノードームみたいな空間のそこは、様々な呼び方があるらしいが、虜囚世界なのだと言う。


 その真ん中にある古びた教会に俺と未那未はいた。辺りを見渡せば、焼け落ちて捨てられた村なのか、数戸ある建物は教会と同じように全て屋根と壁が崩れ落ちていて、石造の基礎が寂しさを湛えていた。


 大気は薄い霧雨に覆われていて、印象派の描いた霧のロンドンと言った風情で、物悲しさを強調してくる。


 半円状のその球体の中、見上げたガラスの表層は様々な景色を映していた。


 その中には、俺と綾香と未那未とが、一緒に仲良く遊んでいるシーンがあった。綾香と未那未が何やら難しい顔でお喋りしていたり、くどくど言ってくる未那未や済ました顔の綾香もいたりした。


 どうやらこれは俺の記憶であり、未那未の記憶でもあるようだった。


 そして町村に絆されたり、家に招いたり、未那未に止められたり、暴行を受けていたり、タバコを押し付けられたりしていた。


 未那未はよく心配していて、よく効く薬を塗ってくれていた。ね? なんて穏やかな顔をした次のシーンは綾香と町村のキスシーンで、その直後は卒業式だった。


 言い難い何かを抱えた未那未と、未来に向かって幸せそうな綾香がいた。


 そして綾香と町村の結婚式が始まり、初夜なのか、強烈なセックスシーンが始まっていた。


 目を背けようとしても未那未…いや、虜囚世界においてはミNミと呼べと言っていた──魔女ミNミと俺とが、その景色をかき消すかのようにして、鈍い霧雨の中、教会の祭壇で、まるで競い合うようにしてお互い溶け合っていた。


 そんな悪趣味には興味がないし、お節介にも程がある。そんな思いが支配する。おそらく未練を断ち切るためだろうが、ご苦労なことだ。


 ──もうなんとも思っちゃいねぇってのに。

 ──もう何度も諦めたって言ってんのに。


 何故か誰かを殺したくて殺したくて仕方なかった。


 俺に殺意なんて、芽生えるとは思わなかった。それこそが聖女によって奪われたモノだったのかもしれないが、はっきりとした輪郭を持ってしまった。


 魔女ミNミは、いつの間にか首飾りをしていた。煽ってんのか。それはお前のではないし、それは僕のもので、俺には必要のないモノだ。


 だから俺は諸共千切ろうと首を絞めたが、一歩足りなかった。


 千切れる前に世界が分たれたのだ。


 一度死んだ日までの僕は、俺から抜け出し魔女を放っておいて、天に昇っていった。


 残ったのは、僕の熱を失った方の、空っぽの俺だった。


 今なら何を満たされてもその色になってしまいそうな、芽吹いた殺意の花と乾いた地面の俺がいた。


 いや、いつの間にか俺の方の首が捥げていて、地面に転がっていただけだった。


 そしてその地面にズブズブと頭が沈んでいき、何かないかと見上ると、魔女ミNミがいて、その身体は濡れ女がごとく蛇となっていた。


 そして分たれた俺の身体はアーモンドの木になっていて、そこに蛇は巻きついていた。


 そうして魔女はニコリと笑い、舌を出し、花を舐めた。


 これが、器たる俺の姿で、聖女が振るう杖なのだと蛇は言う。


 おそらく何かの比喩だろうし、何を言ってるかまったくわからないが、すんなりとそれを受け入れながら沈んでいった。


 閉じていく地面が小さな丸に収束していっただけなのかもしれないが、最後に見たのは天井に空いた穴だった。


 そこに手を伸ばそうにも身体がない。


 まあいいかと、俺は目を閉じた。


 そんな幻覚世界を旅していた。





『…今まですまなかった。お前には…よく助けてもらったよな。……ありがとうな』


『ジュ、宮田君』


『…なんだよ』


『男のツンデレは需要がないです』


『ちゃんと聞けよこら』


『でも嬉しいですよ。ふふ。ならば自ら後悔を断たせてあげます。そしてこんな風にもう一度勃たせてあげ──いたっ、叩くなんて酷いじゃないですか』


『黙ってりゃ可愛いのに、時々ほんと残念だよな…』


『そう言うのは無し…なんですから…』


『はは。何照れてんだ』



 無表情で顔赤らめるとか、器用なのか、不器用なのか。



『……私の為に死んでくれますか?』



 それはプロポーズなのか。それより殺しておいてよくも言う。いや、幻覚だったか、魔術だったか。


 なんでもいいが、責任は取るつもりだ。



『…ああ。いいぜ。お前にやる。全部やるよ』


『ふふ、嘘つき』


『嘘じゃねーよ』


『半分だけでいいですよ』


『けっ、何だそれ』



 みっともない欲、あるいは虚栄、あるいは自己犠牲、そして自尊。想いに蓋をし、出来上がってしまったそれらに溺れて生きてきた──あげく友人に手を出した俺は、決して天国にはいけないだろうとは思っていた。



『では、私に全て委ねてください』



 そして俺は地獄に向かって行動暗示を受け入れた。


 そして、綾香の家に向かっていた。

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