第47 -綾香6

 潤くんは過去を諦めて、わたしと結婚する未來を選んでくれた。


 あの強引な一幕は、おばさま──お義母さまが長年掛けて考えていた作戦だったようだ。


 翌る日、潤くんはお仕事に行っていて、わたしはまだ休暇中のお義母さまと昼間からお酒を呑んでいた。


 目の前には、婚姻届がある。


 宮田潤一、天川綾香とある。


 …嬉しい。


 まるで夢みたいだ。


 でもお義母さまの名前はもちろんだけど、いつの間にか両親の名前も書いてあった。


 いつの間に…



「ごめんなさいね、強引で」


「い、いいえ! ありがとう…ございます…」


「ふふ。驚かせちゃったわね」



 あの時、お義母さまから差し出されたこの用紙で、咄嗟に顔を隠したのは、もちろんわたしの記憶を失ってしまう怖さを知っていたからこそ準備していたらしく、そのおかげか、潤くんは記憶を失くさなかった。


 その記憶を失う瞬間を、どうやらお義母さまはある程度見極めていて、婚姻届を差し込み強引に現実に引き寄せたのだと言う。



「ふふ。案の定、仕事みたいに責任を目に見える形で示せばいけたわね。おばちゃんの読み通り。ああ、仕事って言ってるのは違うからね」


「…はい」


「ふふ。小さな頃、あなたには随分と驚かされてきたし、いつか仕返ししようと思ってたの」


「そ、そうですか…あははは…」



 怖い…どれのことだろう…


 やはり首輪して♡かしら…


 でもそんな事が果たして可能なのか──いや今の状態なのだからそれはそうだろうけれど、本当にそんなことが出来るのだろうかと思ってしまう。


 帰ってきたらリセットとかないよね…あのゲームのせいか、そう思って不安になってしまう。


 お義母さまは言う。


 潤くんの嫌いな言葉に、自己責任という言葉があると。


 何の話だろう…?


 ある時、潤くんは仕事で失敗したのだと言う。もちろん健忘のせいで、言い訳もしなかったそうだ。


 でもお義母さまにおんぶに抱っこで働かざるをえないのは事実で、その失敗も仕事が出来ないのも言い訳で、記憶を失くして苦しいのはお前の選択のせいで、単に努力不足だろうと、それは自己責任の結果だろうと言われたのだという。



「潤一は助かったけれど自殺したのも記憶障害なのも自業自得よ。けれど、記憶を取り戻せない中でも、随分と努力してきたの」



 それは、心が随分と痛む過去の話で、わたしが見てきた、負うべき咎だ。



「はい…承知しています…」


「ああ、責めてるわけじゃないのよ。この作戦の肝の話でね──」



 その時、記憶を飛ばした恐怖は相当だったようで、努力に努力を重ねてきたのだと言う。



「記憶障害は仕方ないとしても、努力なんて本人が自主的、主体的にするものであって、第三者が努力しろと強制する権利は本来どこにもないの。義務もね」



 確かに、努力しなければいけないという義務など存在しないし、義務がないなら当然そこに責任などは生じないはずで、本来仕事と結びつけるものじゃないとお義母さまは言う。



「けれど、あの子は社内の多くの業務に関わり出した。まるで責任に取り憑かれたかのようにして、マニュアル化を推進し出した。誰が失敗してもリカバーもリカバリも出来るようにね」



 その当時は会社の業績も低迷していて、特に失敗の責任の押し付け合いが酷く蔓延していて、お義母さまも困っていたようだ。


「不況は努力ではどうにもならないと、誰もがわかっているのにね」と続ける。


 そこで潤くんのマニュアルを用いることにしたらしく、それからはみんな失敗を恐れず、安心して仕事をするようになっていったという。


 そして助け合いこそが業績を回復し、伸ばすのだと知り、他人の努力不足に原因を求めるような、責任の所在を決めたりするような、自己責任論者は居なくなっていったのだと言う。



「まあ、表向きかもだけどね……責任という言葉にはね、本来他者とのコミュニケーションが前提とされるの。だって説明義務が生じるのは本人であることは自明で、改めて「自己」をつける必要がないじゃない?」



 確かにそれはそうだ。


 それに自己責任とは、金融業界の言葉で、own riskの訳らしく、でも本来の意味は投機などの「危険の負担」のことだという。


 しかも元々日本語ですら無いそうだ。


 そのたかだか20年ほど前に生まれたその言葉に潤くんは苦しんできたのだと言う。



『その歪な日本語に、随分とあの子は苦しめられてきたの。だからこそ人一倍責任を持って仕事に取り組んできたわ。記憶の空白が怖かったのもあるでしょうけど、それこそ執着するくらいに責任に拘っていたの。そしていつしか記憶障害は極端に少なくなっていた』



 一連の写真や婚姻届などは、その責任に目を向けさせたのだと言う。


 ちなみにお酒はもちろん捏造だったそうで、お義母さまはカラカラと笑う。


 そして一呼吸おいて言った。



「つまりね、自己を留めておくために、潤一の責任感を火炙りにしたのよ」



 意味がちんぷんかんぷんだったのだけど、あれくらい強引な方が良いと判断したらしい。



「火炙りとか怖いのですが…」


「もお、言葉のあやよ。あや。綾香さんのためにやったんじゃない。それにいつまで経っても進展しそうにないと思っていたし…」


「それは…」



 どうだろうか…と言っても筒抜けなのだから、もう少しだけ任せてくれてもよかったのではないのではと思わなくもなかった。


 でも、結婚までは果たして進めただろうかと確かに思った。


 そうしていろいろと話す中で気になった事を聞いてみた。


 監視カメラはわたしも知らなかった。聞けば過去、あの男からの暴行の記録はなかったらしく、潤くんによって改ざんされていたようだ。


 それはやはり戻らない記憶だった。



「…まあ、それはいいのよ。もうね」


「…はい」


「ふふ。あの男の浮気もね」


「は、はい…」



 怖い…絶対まだ根に持ってる…。


 そうして、形式的にはお見合いという形を取ることにして、晴れて潤くんと一つになれたのだ。


 つまり、お義母さまには頭が上がらない。


 そういう力関係も、あの一幕でしっかりとわたしに意識させたのは、おそらくだけど、今後自分に何かあったとしても、有無を言わさず従わせるつもりなのでは? と思えて怖い。



「綾香さん? なぁに?」


「いえ…」



 お義母さまは、ロマンスグレーのストレートの髪が美しくて、笑うと潤くんに似ていた。


 でも、あの一幕から一転して、この朗らかな笑顔がどこか恐ろしい。


 これが、魔女…。


 見た目は美魔女なのだけど、怖い。


 でもそのおかげで潤くんとは順調だ。


 それから婚姻届を出して、式を挙げるまでは、家政婦の時と同じように、通い妻として朝晩のお見送りとお出迎えをすることになった。


 結婚してから付き合うみたいなこの関係は、わたしに体験したことのない格別の安心をもたらしていて、これも潤くんの言う魔女美英さんの思惑なのかと、やっぱり怖くもあった。


 だけど、心身ともに、日に日にお互いの好きなところを探る行為は、照れる潤くんに気恥ずかしさを感じるのもあるけれど、世界に鮮やかな彩りを与えてくれて──そしてやっぱり妊娠していた。



「あのさ、ところ構わずちゅっちゅっちゅっちゅっとやめて欲しいんだけど」


「…そんなに多かったかしら?」


「多いよ!」



 でもそれは、虹歌もだった。


 なんでなのよっ!

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